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様々な文章の「型」について

「詩が上手い」と言われたら褒め言葉ではないと思えと言われたことを思い出す。それは確かに言えていると思う。

「詩をかいていること」を友達に秘密していた小学生の私は、何回か友人から「詩をかいているの」と言われ、秘密をといて「見せっこ」をしたことがある。「凄い!上手いね」と言われた。その時、果たして嬉しかったのかは定かでない。その時の私はとても傲慢で「あなたは、そんな誰でもかける詩をかいていて、いったい本当に楽しいのだろうか」これが正直な気持ちだった。何をもって「誰でもかける詩」と思ったのか、それは私の固定観念から産み出された一方的な考えだ。「こんなの私には書けない」
そんな一文を含んだ詩を求めていた。

私の世界は狭く、地方新聞に投稿するくらいしか、詩を外に向けることはなかった。
「現代詩手帖」すら知らなかった。田舎の図書館には、詩集は教科書に載っている詩人のものしかなく、詩誌など皆無だった。
あの頃、詩誌や生きている詩人の詩集を読んでいたら、もう少し早く「投稿」をはじめていただろう。

詩の非定型という文字数の自由さゆえに、1文字も無駄にしない、ということに緩かった。推敲を何度もしてから投稿するようになるまで、その緩みに甘えていた。
言葉は、単独で存在するだけでなく、遠回りでもイメージの中で、「言葉」では表せない空気感を出せるかもしれない、これが私が現代詩を始めたころの「実験」と呼んでいた詩への姿勢だ。

詩に近い文学には、短歌、俳句、エッセイ、小説がある。音的には詩より短歌の方が好きかもしれない。百人一首の「音」の美しさ。
凝縮しなければ完成しない定型をかいてみると分かることがある。型にいれて固めるカルピスの原液のように、溶液として飲むのと、固まりを舌の上で転がすのとでは、大きな差がある。それは言葉でもいえるような気がする。

エッセイには「フィクションを書く」という一文を昨日読み、がんと殴られたような気がした。エッセイは自分の日常思ったことをツラツラ書き綴ることだと思っていた。それはノンフィクションだよね?現実ではないものをしたためること、そのエッセイ(あるいは散文)について考えてみた。
自分のなかで完結するエッセイなら他者の視点は要しないかもしれないが、それは日記だ。読み手がいる場合、「現実」だけの日記を、いかに「エッセイ」として読ませるか。

文月悠光さんと杉本真維子さんは、詩もエッセイも大好きなお二人だ。おふたりのエッセイにたまらなく惹かれた。読後、心に残る残照のような気配がたまらなかった。日常を切り取りつつも、いかにエッセイとして成り立たせるかが、猛烈に凝縮していて、ふあっと非現実感で文中に引き込まれるような錯覚に陥った。

誰にも見せない、自分だけのものから、読み手を想定する時、もっと凝縮した「何か」が必要なのだと思う。
この「何か」に到達するために、いくつもの型をかいている。詩を極めたい者は、詩だけを見ろ、という考えも尤もだ。
しかし、少なくとも私は色々な型で表現するうちに、詩が変わってきたのを感じている。
ひとつの方法論としてチャレンジしてみると、何かが見えるかもしれない。

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