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一番

「字を書く」ことが極端に減った。仕事でも、今や封筒やら書類やら全て印刷だ。

私たち世代の女性は「字がきれい」であることを求められた。わたしはへそ曲がりなので真っ直ぐに字を書けない。
それを克服出来ないまま大人になったものの、中学時代、字のきれいな友人に五十音を書いてもらい、練習をした程度には努力もした。

そんな年代的背景もあり、字のきれいな女性(これも今や差別的表現になってしまうのだろうね)は素敵だと思う刷り込みを抱えている。逆に読めないような字を書くことを知り、それが憧れの美人さんでがっかりしたこともある。

わたしが22才で社会に出た時、「すごく上手ってわけじゃないけど、素直な伸びやかな字を書くね」と言われた。どうやら上手くはないが好感の持てる字であるらしかった。これは外見でも亡き祖母から言われた。
「◯◯は、決して美人じゃないけどチャーミングだ」

わたしはこうしていつも「上手くはない」「美人ではない」だけど「いいね」と言われるひとであるようだ。
この褒められているようでもあり、あと一歩であるラインをずっと歩いてきた。
いわゆる「二番手」ってやつだ。
二番手は「一番」が欲しい。強引に井戸をひき、蛙になって飛び込んだこともある。それはそれで納得させたつもりでも、所詮井戸から出なければ生きていけない。

しかし、ふと思う。「一番って何?」何をもって「わたしは一番」と言えるのだろうか。傲慢でなくそう言えることが果たしてありえるのだろうか。
わたしのテリトリー(という名の井戸)を外れた世界は広く、二番手ですらないわたし。

わたしの中にひっそりとしまってあるものたちが、声をそろえて言う。目に見えるものなんか、所詮たいしたもんじゃないよ。
番号なんてつかないことがこの世界の理だよ。

たぶん、きっと、そういうことなんだろう。



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