頼りない三日月の話。
今日は自分の話。
占いに行きました。
私は三日月らしい。満月ほどは力を持ってない、三日月。満月にならなくても良いのよって言われた。切なくなった。
月はやっぱり満月が求められるし、十五夜が三日月なわけないし、三日月だと兎がいるなんて噂もたたなかったと思う。あんな欠けてる惑星に生物なんて住まないですよね、不便ですもんねって話。ウサギさんも飛び跳ねたら落ちちゃいますし、餅つくより埋め立てして居住地広げたいですよねって話。
自分をもともと以上に大きく見せようとしたり、立派に見せようとしたりってきっとずっとやってきたこと。だって自分のままじゃ、みんな認めてくれないでしょ。賞賛してくれないでしょ。そう思ってた。満月にこそ価値がある。
分かってるけど出来ないこと。
いつから周りの承認と賞賛しか自分の価値だと認められなくなったんだろう。自分自身がここで良いと、これが良いと言えるほど価値のあることなんてないのに。いつから自分では自分の価値が見出せなくなってしまったんだろう。
価値?存在意義?何それ。そう言えるのが一番良い。分かってるでも出来ない。出来ないってことは、分かってないってこと、らしいよ。だって分かってたらできるもん。出来てることは分かってるもん。
三日月は輝いてる場所が少ないだけで、ちゃんとある。ここにいる。そうやって解釈できる自分を連れてくるのは私しかいない。だって、三日月に根付いて生きているのは私だから。過去に縋り付いて、幻想に思いを馳せて、叶いもしない夢にうつつを抜かしてるのは私だから。満月になりたい、じゃなくて満月より三日月が好きな人って必ずいる、それを一番最初に私にしたいんだ。
願いと本音。
欠けてるのは足りないわけじゃなくて、この形が完全体で、このままで良いかって、これが私のベストだって認められて笑える力が一番必要なんだと思う。満月になろう、太陽になろう、なれないならいっそ雲になって他を隠そう、星になって願いを叶えよう。そんなんじゃなくて、三日月が一番好きな人もいて、その中には自分もいて、満月もいて、三日月もいて、半月もいる。それは誰が良いとかじゃなくて、私は私でいていいんだ。そう思える自分の強さが一番大事なんだろうなって思う。
願わくば満月になりたいと空を見上げる、でも実は満月だっていっぱいいる。つまり、三日月だっていっぱいいる。それで良い、それが良い。
嫌な人を目の前にすると顔に出るのは気を付けてって言われた。思い当たる節がありすぎる。気をつける気持ちは持ってる、今のところ。
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