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育ちのいい所作と家で死ぬということ。

今日は看護師としてのお話。

洗面器の使い方。

お風呂に入る時に洗面器って使う?私は使わなくて、むしろお湯かける以外に使ったことがない。水垢がつくし、そんなに使わないし、一人暮らししてから買ったこともなかった。銭湯に行けば確かにあるけど、シャワーで事足りるし、あっても使うこともなかった。

それが私の常識、だった。

洗面器と風呂椅子を使ってお風呂に入る人の所作を見て、あぁ育ちのいい人ってこういうことを言うんだろうなって感じた。誰が見ていなくとも、丁寧に過ごす。それが当たり前で、自分を慈しむってそう言うことなんだなと感じた。

自分が当たり前に常識にしていることってたくさんあって、家に帰ったら最初はお風呂とか、調理器具は黒とか、冷蔵庫には必ず納豆とか。当たり前すぎて、言葉にするのも迷うくらいの自分の当たり前ってある。

習慣に寄り添うこと。

患者さんをその人のお家でお風呂に入れることがあった。病院の風呂に入れてわかる患者さんの常識なんて頭から洗うとか、お湯は熱めが好きとか本当そのくらいだった。でもそれに疑問もなければ違和感もなかった。入れてあげた、それで十分な重労働だった。

患者さんの生活に寄り添う、それがこんなに幅広いことだなんて知らなかった。

風呂にある椅子や洗面器、椅子に座らず体を洗うのか、ウォッシュタオルで洗うのか、フェイスタオルを使うのか、最初に湯船に使ってから体を洗うのか、ボディーソープなの、石鹸なの。その一つ一つにその人らしさがある。その人が築いてきた歴史がある。

自分にとっては歴史があって、癖があって、ルーチンがあってなんて当たり前のことなのに、目の前にいる患者さんには考えが及んでいなかった。正確にはきっと思うだけであった。考えるや実感することはなく、どこかでしょうがない、それが病院の限界、それが私の精一杯と思っていた。何もしていないのに。

家で生きること。

家で生きたい、家で死にたい。安心した場所で過ごしたのは当たり前のこと。でもそれだけじゃない。物を取る、窓の外を眺める、そんな些細なことも当たり前がある。カーテンの色、床の質感、洗濯機の音、その一つ一つが自分を自分にする。ここで生きてきた自分を形作ってきたものとそばにいる。最後まで自分でい続ける。

それがきっと、家で過ごすということ。最後まで自分自身を慈しむということ。誰からどう見られるとかではない。自分でできる最後まで洗面器と風呂椅子を使ってお風呂に入る。丁寧にタオルで自分の体を洗って、タオルをゆすぐ。

人に話すほどでもない本当に何でもない当たり前の所作。それがきっと自分自身。それを守れる最大限の環境が自分の家。そこで死ぬと言うことが、死の質を高める一手段。命の火が消えるその瞬間まで、あなたはあなたのままでいて。

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