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LGBTQを隠して生きてほしい、という意見を、街の心理士はどう考えるか

LGBTQを隠して生きてほしい、という意見を、街の心理士はどう考えるか
サイコロジー・メンタルヘルス&日々のあれこれ・その7

 栃木県のとある市の議会において、「パートナーシップ宣誓制度」導入についての議論で、ある議員が「LGBTQは、できたら、静かに隠して生きていっていただきたい」「その方が美しいと思いますし、社会に混乱が起きない」と発言した、と報じられました。見聞きされた方も多いのではないでしょうか。

 私は当該議員(や、報道されたことによって巻き起こされた様々な意見に対して)糾弾したり賛意を示したりする義理も道理もありません。が、「街の心理士」としてこの話題をどう見たのか、記しておくことは悪くないな、と感じたので書き残しておきますね。

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 まず、一連の出来事は、地方議会の論戦の中で起こったものです。栃木県は9月より、県独自のパートナーシップ宣誓制度を導入し、宣誓したことを証明するカードを発行することで、公営住宅入居の際の資格証明とするなどの仕組みを作りました。当該市もカードの利用先に含まれています。市議会の議論において、当該議員の発言は、多数の賛意を得なかった、ということだと考えてよいでしょう。

 この話題が報じられ、さまざまなお立場の方々の意見を見聞きします。一般の方は「それは酷い!」から「それも一つの意見じゃないですか」まで、法律の専門家は「黙っていろ、というのは、当事者の表現の自由を侵す怖れ」などの意見があるようです(ヤフコメなどを網羅したわけではないので、私が見聞きしたこれらの意見が“偏っている”可能性は排除できませんが)。
 表現の自由、などというと、「当該議員の言論の自由はどうなるのだ」などと対抗意見が出そうなのですが、他者の人権を侵害しうる言論を制限しうるのか(そもそも当該議員の発言が、具体的に誰かの何かを侵害すると認められるのか)どうかは、私の守備範囲を大きく逸脱しているので、控えます。

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 では、「街の心理士」である私は、この話題をどう見たのか。

 LGBTQの方々が、当然の権利(と、少なくとも彼ら自身が考える)を求めて声を上げること自体には、何の問題もないはずです(それこそ、言論の自由)。ただ、声を上げること自体を煙たく思う人たちがいた、ということ。

 では、LGBTQの方々が(煙たがられても)声を上げるのは、何故なのでしょうね。ないものねだりを繰り返す“わがまま”故でしょうか。恐らくそれは違いますよね。

 私たちの生活場面の多くで、LGBTQの方々は、いちいち壁にぶつかるからです。同性同士のパートナーだと、公営住宅の入居にハンデがある(単身でないことが入居の条件である場合、婚姻関係にある“家族”と認められない)。パートナーの片方が病院に入院しても、もう片方は面会にも行けない(婚姻関係にある“家族”と認められないので、個人情報を明かせない)、などなど。

 先日、“あっぷあっぷしている金魚に対し、金魚の自己責任を問うのはナンセンス”という趣旨の記事を書きました。

 生活のあらゆる場面で壁にぶつかり“あっぷあっぷ”している方に対し、環境の改善を通して不自由を減らすよう考えるのは、コミュニティで働く者にとってはごくごく当然の態度です。日本国憲法における「婚姻における両性の合意」の解釈といった難題を避けても、ちょっとした工夫で誰かの不自由を減ずることができるのなら、ぜひやりましょうよ。

 そんなふうに呼びかけたいな、というのが、この話題で「街の心理士」が感じたことです。

 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

(おわり)

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