後日談

昨日の書き殴りを振り返りながら、整理したこと。
***昨日の話***
アメリカでの出来事をきっかけとして、沢山の人が様々な意見を述べたり意思表示をしている。
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その中でも特に、身近な人が勇気と使命感を持って真剣に考えて自分の言葉で発信している意見は、私に考えるきっかけを持たせてくれた。

でも、差別が向けられたと自分自身で感じた経験が少ないからかもしれない、私は明確な当事者意識がどうしても持てない。かと言ってそのまま放り投げておけない気もする。

そこで、最大限に想像力を働かせて考えてみた。
差別とは?悪意とは?臆病とは?勇気とは?・・・ってずーーーっとモヤモヤ考えてて、その過程すべてすっ飛ばして結論だけ言うと、

「少なくとも自分の中から生まれる差別をなくすために、強くなる」

という所に落ち着いた。強くなるって超曖昧...だから今まで自分が「強くなれた」って思った瞬間についても少し考えた。
これが実体験のない人がなんとか今回の問題をジブンゴトとして受け止めて出た結論です。的外れな事言っていたら恥ずかしいし、我ながら精神論。

それでも、以下、なんでこんな結論になったのかを一応書きます。

1.まず差別とは、「悪意」と共に、あるフィルター(偏見ともいう)を通して人を判断して、そのフィルターを通して接したり言葉を浴びせたり規則を押し付けたり...それが酷いと殺してしまったりすることだと思う。

2.「悪意」とは、調べたら、人に害を与えようとする気持ちだという。私は、これは自分の中の臆病から生まれる気持ちだと思った。臆病な気持ちや恐怖が自分を必要以上に守ろうとするから、他人を傷つけることになる。排除しようとする。

3.臆病/恐怖と無謀/蛮勇の中庸が「勇気」だとアリストテレスは言った。じゃあ勇気とは?この場合の勇気とは、自分が脅威にさらされる可能性を持った人が、その可能性に正面から向き合う事だと思う。傷つきそうになった時にそれに冷静に向き合って、対処することは、実際カンタンなことじゃない。差別された経験があまりない私だから、逆にそれが冷静に分かってしまう。私は正直言ってまだまだ弱い。下手をするとまだ武器を持たぬ相手を前に武装したくなる。先手をうって自己防衛したくなる。だけどそういう時、そういう不安や弱さと向き合い、恐怖に打ち勝つ力をくれる強さを自分の中で育まないといけない。
正直言って私は、自分の弱さに負けて人を傷つける事が過去に結構あったと思う。そういう意味で、あの警官と過去の私は対して変わらない。そんな自分が恐ろしい。とっても後悔するし恥ずかしい。

それを希望をもって達成しよう、見つけようとする作業も、少なくとも私の中から生まれる差別をなくすための一歩になると思う。

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