オメラスから歩み去る人々の続編


「オメラスから歩み去る人々」という短編があります。
その続きを書いてみました。
オメラスから歩み去る人々のあらすじはこちらのブログにて紹介されています!↓

https://ameblo.jp/ashitanokaze-dd/entry-10153685824.html

今回はその続きととして、お話を考えてみました。

目次
1.エシフィカス
2.オメラスの人々
3.オメラスから歩み去る人々
4.彼らの末路

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エシフィカス

オメラスの外にある話を、だれが読みたいと考えるだろう。オメラスの中には、語るに値する美しい自然や豊かな光景、愛、機知と才能に富んだ人々、ロマンティックなドラマがそこら中にこぼれ落ちている。それなのにわざわざオメラスからそっと姿を消した者たちは、我々の求めるような物語を持たないかもしれない。暗く、地味な、味気のないその先には、語りえることなど何もないように思われる。もしどうしても彼らに光の部分を見出すとしたら、それはオメラスの人々のもつ唯一の深く暗い事実を抱えていないということだけに思われるのである。つまり、オメラスの人々ならば誰もが持っている、暗闇を這いずり回る子供の犠牲の上で自分は平和に生き続けているという虫唾の走るようなあの感覚を、かれらは手放したのだ。
 話を進める前に、その感覚について語っておこう。12歳になって子供の姿を目の当たりにしたオメラスの人々が一人残らず持つことになるこの感覚について、オメラスの人々自身が語り合うことは例え家族の間や近しい仲の間でさえもタブーとされているが、同時に誰もがこの感覚をエシフィカスと呼ばれる感覚であるということは不思議と、オメラスに住んでいればだれもが大人になる前に認知することになる。(*“犠牲” Sacrifice を逆さに読んだ言葉、Ecifircas を日本語風に読み替えた続編用の創作語)
 オメラスから歩み去る人々の中には、この感覚に名前があることもわからぬまま自らのうちに湧きおこるこの気味の悪い感覚を放棄するような者もある。穴蔵の子供を見に行ったまま帰らなかった少年少女たちがこれにあたる。彼ら/彼女らは初めて遭遇する内からあふれるどろどろとした感覚に嫌悪を抱き混乱し、しかしそれが何なのかも分からず泣き、怒り、そしてそのまま逃れるようにオメラスを後にするのだ。
 一方で、そうではない者たちは、12歳の頃にはじめて知った衝撃的な感覚についてやがてそれがエシフィカスという名前のある感情であることを知る。また、公に口にこそしないが他のものもまた共有する感覚であることや、それを口にしてはいけない理由についてもだんだんと悟るようになる。そして(それらの過程を経た大抵の人々がそうであるように)しばらくはそのオメラスの宿命を受け入れたかのように生活するのだが、ある時、ほとんど前触れもなくふいにオメラスを歩み去る。
 さて、オメラスの人々が共通してもつエシフィカスという感覚について語り終えたところで、我々は今オメラスで起きていることについても知ることにしよう。なにしろ明るく優雅なオメラスには語るに値することがたくさんあるのだから。暗く、地味なオメラスの外の話をするのは、そのあとだ。

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 オメラスの人々

 ひとしきり降った雨がやみ、潤んだ庭園はさわやかな日差しに包まれていた。心地よい風が吹くたびに葉先の雨粒が反射してきらきらとゆれている。二人の少年が座る庭園を望むテラスには木漏れ日がさし、ひんやりとした涼しさを保っていた。一人の少年がギターを奏で、その弟思われるほうが音に合わせて口ずさむ。この兄弟には、本当ならばもう一人、15ほど離れた兄がいるはずだった。否、その兄がもしもまだオメラスにいたのならば、この二人の少年は生まれていなかったかもしれない。というのも、彼らの兄にあたる少年が12歳になって穴蔵の子供を目にしたその日以降、少年は家に帰ってこなかった。
 お気に入りのキャミソールとブーツ、有り余るお気に入りを身にまとった少女は同じようにきらきらとたのしげな装飾を身に着けた心から自分にパワーを与えてくれる親友たちと共に、夏の夜空の下、話に花を咲かせていた。それぞれがお互いに最も興味のある話題と自らの夢と野望について話し、今自分たちが最も行きたい場所に向かっていた。少女たちは4人で歩いていたが、その中にいたはずのもう一人の少女は、実は先月オメラスの街を歩み去ったのであった。
 小さいながらも自分の店を構え、周辺の人々から愛される飲み屋を経営していた男がいた。男には身寄りがなかったがそれでも店の客と毎日楽しく繰り広げられる夜の談笑が男を幸福にした。ある時行きつけの客を介して素敵な女性と知り合い、恋愛関係になった。男は女性を愛し、女性も男を愛していたが、もうすぐ結婚をしようというところで女はオメラスから歩み去ってしまった。
少年が帰らなかったその日、両親は愛する一人息子がオメラスを後にしたことを悟った。少女たちも、仲間が去った翌日にはそのことを早くも知っていた。男は女性の家族からそのことを聞きつけた。そして興味深いのは、彼らは心の奥底の深い悲しみを一言二言、家族や仲間に共有するような形で口にした後は、取り立てて騒ぎ立てることもなく、少年や少女、女性がいた埋め合わせが表面的にはごく自然に、いやむしろ不自然に埋まっていったことだった。もちろん、大切な人がオメラスから去ったことで、残された者たちが苦しまないことはなかった。しかし、このような事態はオメラスでは昔からたびたび起こることであって、そんなときの対処法を彼らは周到に身に着けていた。彼らは大きな喪失感を感じながらも、その痛みに関して敏感になりすぎることなく、やがてそれを受け入れ、幸せに暮らし続ける術を知っていた。自分が悲しむことで事態は何一つ変わらないのだということを彼らはよくわきまえていた。そのような部分もオメラスに暮らす人々を特徴づける性質だといえた。そして、なにより彼ら自身が自分たちのそのような性質を誇りに思っていた。
 多くのオメラスの人々が自らの「無力」を初めて実感するのは、12歳で穴蔵の子供の存在を知るときであった。自分の幸せが一人の犠牲の上にしか成り立たないのだということをその時に嫌でも突き付けられる。最愛の人の死、家族や大事な友人のオメラスからの立ち去り、または日常な些細な出来事から自らの「無力」を実感することはその後も多々あるのだが、穴蔵の子供の事実に向き合い、それを抱えた彼らは「自らの無力を認める」という行為によってそれらを許すことができた。もちろん一筋縄というわけには当然いかなかったが、多くはあらゆる心理的手段を用いてそれに成功していた。
 だが、どんな思考実験を凝らしても、その行為が不可能であった場合はどうなるのか。自分の中にある「エシフィカス」の感覚や、その先の「無力感」の受け入れをどうしてもできないとき、人々はどうするのだろうか。どんなに自分を言い聞かせ、思いこませ、パラダイムを転換させても、それらが首をもたげて彼らを苛ませるとき、それならばいっそ死んでしまおうと思い立つかもしれない。しかし、そうではない。彼らは諦めない。諦めないからこそ、自分のオメラスにおける在り方に苦しむのだ。諦められるのであれば、彼らとてこの素晴らしいオメラスで幸せに暮らし続ける道を選んでいた。オメラスを歩み去ったのは、そんな人々だった。

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 オメラスから歩み去る人々

 「誰かの犠牲の上にある幸せなど、到底受け入れることはできない」という強い感情と、「エシフィカスを感じることなく、つまり誰の犠牲によることなく生活できる場所がきっとどこかにあるはずだ」という強い希望。それらがあったからこそ、彼らは豊かな暮らし、最高の仲間、最愛のパートナーを捨ててまで、その外を目指すことができた。彼らが他のオメラスにとどまる人々と違ったのは、まさにこの点にある。自らのうちにある「エシフィカス」を決して認めることなく、それなしに生きていける世界をこの地の外に見出し、希望をもって歩み去った。その感覚を手放したことでどんな心持ちになるのか? 街を去るとき気分は軽いのだろうか、それとも重いのだろうか? オメラスにおいて、オメラスを歩み去った人々の思想に関するこれらの疑問がタブーとして扱われるのは、それがそこに住み続けるのにはあまりにも耳の痛い内容であるからだった。だから、たいていの人はそれから目をそらし、知らんふりをしている。そしてそのこと自体が罪に問われるようなことは決してない。なぜならそれのみに対する徹底的な無関心によってオメラスの幸せは保たれているのだから。歩み去る人も、それを良くわきまえているので、そっと静寂のうちにこの地をあとにするのだ。

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 彼らの末路

 さて、私はこの続編の物語のはじめににおいて「オメラスの外でのことについて語る価値があるのかどうか」について問うた。そして、ここまで彼らを内面的にひも解いてきてもなお、果たしてこれ以上彼らについて記述することに意味があるのかと疑問を抱くのだ。彼らの魂がどんなに清く立派な意思と希望を持っていると分かったところで、その高貴な精神についてならいくらでも言葉をつくせたとしても、悲しいことにその先についてはほとんど語りえない。なぜなら、彼らは分かっていない。人間が生まれながらにしてその性質から逃れることは不可能であることを。どんなに場所を変えたとしても、かれらはやがて気づくだろう。オメラスにいたことが原因なのではない、自分の生そのものの性質こそがあのおぞましいエシフィカスの源泉なのだということを。その性質を受け入れるという痛みに正面から向き合い、耐えることなしには、決してその先に進めないのだということを。その究極の姿こそがオメラスの街であったことに、彼らはやがて気づくのだ。そして、ようやくそれに気づいた頃の彼らは、自分のような末路を歩む者を二度とオメラスから出すまいと、その話をオメラスに持ち帰り、語ろうとするだろう。しかし、彼らは後戻りするにはあまりにも遠いところまで来てしまい、もはやオメラスに帰る道は残されていないのであった。

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END

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