自己肯定感(ちまちま書いてく

ツイッターを見てると自己肯定感と自意識過剰をごっちゃにしている人が多すぎる。例えばこれ。「自己肯定感が」を「自意識が」と置き換えても成立する文体である。

りゅうちぇる色々あったけど「自己肯定感があると好きな人に会えた時にたくさん愛を与えられる。自己肯定感がなくていっぱいいっぱいだと欠乏を埋めてもらいたいと思ってしまうけど、自分に自信があれば自分も愛を与えられるという素敵な関係になるんですよ」って言葉は個人的に好きです

自己肯定感があるイコール自信があるというわけではない。自信があるといのは自意識が過剰であるという意味に他ならない。自己肯定感がある人は、他人から見れば自信があるように見えるだけで、本人に至っては普通の事なのだ。自分で自分を認めて自分の中で完結出来るのが自己肯定感が高い人。自己完結が出来るので、自信があるという話にすらならない。そもそも何に対して自信とするのか。比べる対象からして存在しない。

自己肯定感が高い人は他人に対しても自分と同様に「自分自身を認めているのだろう」という態度になるので、他人に対し見下すような態度はしない。よって与えるという発想にはならない。誰であってもお互いを対等な存在と見るので、相手に対し尊重という態度になる。つまり自分にするのと同じように相手を認めようとするわけだ。認めてる相手に対して何かを与えようなどとは失礼な態度というほかない。

プライドが高いだけの子は謝れません。真に自己肯定感が高い子は謝れます。前者は既に自己評価が低いので、自分の非を認めることでそれがさらに下がるのが怖いのです。後者は自己評価が高いので、謝っても自分が揺らぐことはありません。謝れない子には、真の自己肯定感を育ててあげる必要があります。

自己肯定感が高いイコール自己評価が高いというわけでもない。自己肯定感は自意識が高いのとは違う。自己肯定感の高い人は自分自身で完結しているので外部の意見がなかなか入らず非を認めるのが難しい。注意されても「この人にとってはダメな事なんだな」という認識でしかない。しかし相手を尊重する態度は変わらないので、とりあえず謝っておこうとなり、真意ではない謝りになるのである。自分が揺らぐことはない、は正しい。真意じゃないからね。
自己肯定感の高い子にさせたいのなら、失敗したことに対し「失敗しちゃったね」「この場合はこうしよう」と促すのが大事です。否定する言葉は自己肯定感を下げるだけ。まずは失敗したと肯定させ、次にこうするべきだと肯定させる。肯定する言葉だけで変化を促すのが大事なのです。謝らせるのは否定を含むので逆効果でしょう。

自己肯定感とは何か

自己肯定感は何を肯定するの?

自己肯定感は文字通り己を肯定する感覚や感情です。この「肯定」は正しい事や楽しい事などのポジティブなイメージはありますが、間違った事やつまらない事などのネガティブなものも含みます。つまり、面白くない、もういやだ、死にたい、などの負の感情も含めて肯定するのです。

それらネガティブな感情を否定すると、自分の中で生じた価値観を否定してしまう事になるので自己肯定感は成立しません。「このような考えはしてはいけない」という自己否定になるからです。この辺り、世間的に大きく勘違いをされているようで、「ポジティブだから自己肯定感高いんだ~」とか、「あの人、自信ありそうだから自己肯定感高いんだ~」という発言はしばしば見られます。
自信がある、自信をつける、というのは自分を肯定しようとするものです。つまり自己肯定感が低い人がする行為です。自分を肯定するために、勉強や運動を頑張って自信を付けようとするのです。
ポジティブになろう、ポジティブであろう、とするのも同様です。ポジティブであれば自分を肯定的に受け入れられる。誰に対しても受け入れられる。しかしこれは積極的に自分自身を受け入れようとするだけの行為であり、受け入れやすくするためにポジティブな感情を選択しているに過ぎません。ネガティブな感情は受け入れがたいからです。

自己肯定感は自分の一切を認めること。

自己肯定感は自分を肯定する、端的に言えば自分の一切を認めるという心の働きです。自分に対して制約が多いと自己肯定感が高まりません。例えば「マナーやルールは守るべき」「間違ったものははっきり否定しよう」「気に入らないものは排除しよう」などです。ルールやマナーが多いとそれらに反するものを否定してしまいます。間違ったものや気に入らないものがあると言う事は、自分の中で否定的な価値観や感情を作っている事になります。「〇〇反対」などの否定すべき価値観や、怒ったりくよくよしたり嫉妬したりする負の感情です。このような否定すべき価値観や感情が内面に多いと、例えそれが世間的に正しいものだとしても(戦争反対とか)、自己肯定感には繋がらないのです。

自殺や殺人など、否定すべきもの(価値観念)について

例えば自殺や殺人は世間的には否定すべきものですが、自己肯定感が高い人にとっては「そういう場合もある」と認めることになります。根源的には人間のする事に良いも悪いもないので、なんでも肯定するべきなのです。
もしそれらを否定してしまうと、自分自身が自殺や殺人をするという選択がなくなってしまうし、自ら禁止しようとする事で余計な抑圧を生じさせてしまい、精神的な負担になりかねません。むしろ肯定する事で自らの負担を開放し、他者の自殺や殺人にも理解を示す事が出来ます。

ただ、世間的にはやはり忌むべきものであるので、他人に対しては「世間的には」という前提で会話をする事になります。つまり「(世間的には)自殺や殺人は悪いよね」という感じです。社会秩序を維持するためにはやはり自殺や殺人は社会不安を増大させマイナスとなるので、極力しないさせないようにするべきなのです。内面的な肯定と社会的な否定によりバランスを取っているとも言えます。これにより肯定しつつもあえてしないという立場にしているのです。

嫌悪感情など、不快な感情・情動について

また、自己肯定感が高い人は不快な感情・情動(以下情動)をも許容します。例えば汚物に対する生理的嫌悪などです。内面で生じた情動である以上、これを否定すると自己否定となってしまい、抑圧や分裂の原因になりかねません。
しかしながら不快な情動は体に対し負担となる場合があります。いわゆるストレスというもので、緊張や不眠や疲労を蓄積させてしまいます。自己肯定感が高いという事は不快な情動をも肯定してしまうのですが、一方では体に対する負担も負わなければならないのです。なので自己肯定感の高い人は極力そのような情動が生じないようしようとし、下品なものは避ける傾向にあります。逆に言えば、上品な人ほど自己肯定感が高い、と言えます。上品なものは好ましい情動を高めるので、自己肯定をする人にとっては楽だからです。しかし下品な環境でいると不快感を生じ、潜在的に否定的な情動が継続するので、誰であっても自己肯定感は落ちてしまうでしょう。

ちなみに「負担を負う」は「頭痛が痛い」という重言とは違い、「犯罪を犯す」のような使い方として有効のようです

五感からの情動について

視覚・聴覚からの情動は、主に思い起こされる記憶を伴い、例えば見た・聞いたという一次情報を脳が認識し、それに紐づけられた記憶(いわば二次的な情報)が想起され、その紐づけられた記憶によって情動が沸き起こります。汚物を見た・ビチャビチャという音を聞いた、で、「汚い、臭い」というイメージが沸き、不快という情動になるのです。視覚・聴覚からの情動は記憶を経て起こるので情報的学習的情動と言えるでしょう。

それに対し、触覚・嗅覚・味覚といった体感的な感覚(以下体感覚)では、例えば寒い部屋に入ったとか、おいしいものを食べたとか、そのような身体的な刺激が直接、快不快を生じます。体感覚は生命に関わる情報が多い(熱い、刺激臭、苦いとか)ので、記憶想起のプロセスを飛ばして真っ先に危険を知らせるのです。赤ちゃんにも備わっている機能であり、体感覚から生じる情動は元々体に備わっていると言えるでしょう。

まとめると、視覚・聴覚刺激による情動では、刺激→記憶想起→快不快→情動というプロセスを経るのに対し、体感覚による情動では、刺激→快不快→情動となります。新生児は体感覚が優れていると言われますが(視覚は未発達。聴覚は発達。母親の声を覚えるためだろう。)、このような生命保存のためのシステムなのかもしれません。

視覚・聴覚からの情動は学習で起こるものだと先述しましたが、強い光や金切声、大きな音などは体自体が忌避するものなので、体感覚的な情動もあるものです。また、触覚・嗅覚・味覚などの体感覚であっても、過去の経験によっては一般とは別の情動が起こる事もあり、学習的な情動もある事になります。

自己肯定感の高い人は、これらの感覚的な快不快も全て肯定してしまうものです。しかしながら不快な情動は体にとって有害なものであり、どうしてもストレスとして体を毒づけてしまいます。なので自己肯定感の高い人は、必ず不快なものを避けるようになり、逆に快いものを周囲に置こうとするので、上品になります。少なくとも下品な事は一切しません。逆に言えば、何でも否定しようとする人ほど下品になります。つまり下品な人ほど自己肯定感が低いわけです。

何でも肯定的に捉えつつ下品な人は矛盾するようですが、単に感受性が欠けているだけでしょう。快不快以前に関心がないのです。しかしある意味ではこのような人が最も自由なのかもしれません。何でもあるがままに受け入れつつ感覚的にも否定しないという態度は、何にも振り回される事はないからです。

自己肯定感は2つある?

このようにして見ると、自己肯定感は2種類あるように見えます。観念的なものと感覚的なものです。このうち感覚的なものはさらに2つ(視覚・聴覚と体感覚)に分かれます。精神的なもの、肉体的なもの、とした方が分かりやすいかもしれません。
恐らく世間的に受け入れられているものは後者の感覚的肉体的なものでしょう。気分を上げて自己肯定感を高めよう、食事や睡眠や入浴で自己肯定感を高めよう、というものです。
しかしながらこのような働きかけは、逆に言えば自己肯定感を高めようとするものであり、即ち自己肯定感が低い人がするものと言えます。自己肯定感の元から高い人はそのような行為は不要であり、むしろマイナスにならないように気を付ける程度になります。
このような高め方は環境に左右されてしまうので、自己肯定感としては弱く不安定なものになります。本質的には精神的に自己肯定感を高めた方が強く安定出来るので、環境を整えるのは補助的に行うに留めるべきであり、環境を整える事に腐心するべきではありません。あれもしなければ、これもしなければ、と、外部に依存するだけになってしまいます。

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