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読んではいけない

 万が一、今この記事を読んでいて「私も原田マハ読んでみようかな~」と思っている「マハ未経験者」がいたら、いやもしいたらですよ、この「いちまいの絵~生きているうちに見るべき名画~」から読んではいけません。

ありがちな題名

 昨今「生きてるうちに(または死ぬまでに)○○すべき○○」というタイトルが乱発されています。「見るべき絶景」「観るべき映画」「食べるべきピッツァ(?)」「入るべき温泉」等々なんでもいけます。ですからこの本も「こういうタイトルで本書きませんかぁ?絶対みんな読みたいと思いますよ~」と編集者が持ち込んだ企画、かどうかは知りませんが、これをマハ作品の最初に選ばなくてよかったと思います。

 私は確か最初が「キネマの神様」で次に「リーチ先生」、そして「ジヴェルニーの食卓」「楽園のカンヴァス」「暗幕のゲルニカ」と王道(?)を歩んできました。(先にマハ作品をたくさん読んでいた美術好きの友人や母の指南があったからですが)それにより素人の私は、マティス、ドガ、セザンヌ、モネ、ルソー、ピカソを楽しく勉強しました。それは同時に美術史における「印象派」とその周辺の動きを、マハさんの創作物語を通して知ることでもありました。

順番の妙

 私はそれらのマハ作品に登場する画家の暮らしや人となりはもちろん、作品もほとんど見たことがなかったため、「いったいどんな絵やろう…」と想像しながら読むことが楽しかったので、もしこの「いちまいの絵」を先に読んでいたらそういう楽しみがなかったに違いありません。

 さらに「ジヴェルニー…」や「楽園…」を読んでからこの「いちまいの絵」を読んだことで、「いちまいの絵」を一層楽しく興味深く読むことができたと感じています。そして本作では、印象派を核として、それ以前とそれ以降という具合に時代を整理をして美術の傾向と作品・作家に触れることができました。

 それと「順番」といえば、本作では計26作の絵が紹介されているのですが、もし一作目に登場するのが古い順で「ディオニュソスの秘儀」(紀元前2世紀頃)であったら、あるいは読み進める勢いが鈍ったかもしれません。しかし先頭を切るのはピカソの「アヴィニヨンの娘たち」です。「楽園…」で何度も描写されるピカソの奇作(?)です。「ぁー、コレがアレか!」てな具合に勢いがつきました。ミュージシャンはアルバムの曲順にこだわると言いますが、順番って侮れませんね。

なぜピカソは特別か

 マハ作品では折に触れ「ピカソがいかに特別か」が説明されます。しかし私にはそれが新鮮なことでした。なぜなら、我々の世代は既に「へんちくりんな物も一つの芸術であり、そもそも芸術とはそういうものだ」と人生のどこかで了解しているんですね。その最初の経験が岡本太郎なのか何なのかはわかりませんが、とにかくそういう時代に生まれているわけです。

 しかし芸術をそういうものした張本人がピカソだというのです。人物であれ風景であれ静物であれ、それらを実物そっくりにあるいは幾分整えて絵や彫刻で表現することがそれまでの芸術だったところへ、ピカソは新たな「美の基準」を持ち込んだのです。自らの存在意義を賭け、全く新しい美の基準を最初に世に問うた実験的かつ挑戦的な作品が「アヴィニヨンの娘たち」だったのです。

 そして我々はピカソがすっかり変えてしまった世界に、そうとは知らず生きていたんですね。

「美」はいつからか

 私は、思いがけず美しい夕焼けに出くわしたりすると、立ち止まって眺めながら「これを美しいと感じるのは人間だけやろか?」などと考えてしまいます。動物に「美を愛でる」感覚はあるか?という疑問です。ある種の鳥などは、雄が生殖の権利を勝ち取るために美しい羽根を持っていると言われていますが、雌は本当にそれを美しいと感じているのでしょうか?雌鳥に訊いてみないとわかりません。

 そして美の感覚を持つ我々人類はいつから絵を描くようになったのか、と太古に思いを馳せながら2作目「ディオニュソスの秘儀」という見たことも聞いたこともない絵を知りました。この絵はポンペイの遺跡の中で火山灰をかぶりながらひっそりと、気の遠くなるような時間を待ち続けていたというのです。誰かに発見されるまで。この辺は映画「インディアナ・ジョーンズ」を初めて観た時の血湧き肉躍るような感覚を覚えましたよ。そういえば私は幼い頃両親に連れられてこのポンペイを訪れているはずですが、果たしてこの絵を見たのかどうか確認してみないといけません。

画家の「列伝」

 この本の面白さは、絵の解説というだけでなく、マハさんが念願かなってその絵を生で観られた時のドキドキが語られていることです。そしてその絵を描いた作家はどんな人物でどんな人生を送ったのか、という「列伝」的な要素がたっぷりです。私にとってはそういうことこそが絵を見るより面白かったのです。実は私は普段野球もサッカーも観ないのですが、Number というスポーツ雑誌で、ある一人の野球選手やサッカー選手にスポットを当てて深掘りする記事は大好物です。それと同じことかも知れません。

最も地味で最も不思議な画家

 そして本作中私が最も感心してしまったのは13作目ジョルジョ・モランディ「ブリオッシュのある静物」(冒頭の画像)です。全く知らない人でしたが、別に絵に感心したわけではありません。私にそんな絵を見る眼力はありません。ゴッホやピカソといった「ビッグネーム」でないこの地味な画家とその絵を我々にプレゼンするマハさんの「視点」に感心しました。

 この画家にキャッチコピーをつけるとしたら「ひたすら、静物。一途に、静物。」でしょう。そんなモランディの不思議な魅力をどう言い表せば良いのか、苦心が見られますが実に見事です。彼の生い立ち、どういう訳で静物ばかり描くようになったのか、彼の静物は何を語りかけてくるのか、晩年はどうだったのか…。私は絵描きとしての彼の魂に触れ、思わず目頭が熱くなりました。

苦しみの果てに

 まだ文字がなかった頃の「絵」。まだ法治国家がなかった頃の「絵」。まだカメラと写真がなかった頃の「絵」。そしてピカソが基準を変えた後の「絵」。それぞれの時代で絵の役割は違っていたようです。

 それは美の表現であると同時に「記録」であり、宗教の「教義」であり、社会的地位を誇示する「飾り」であり、やがて「美のための美」になってきたのかも知れません。それに伴い「絵を描く人」も「職人」から「芸術家」に変わっていったようです。

 そして「芸術家」になった絵描きがいつも苦しむのが「自分の表現と世の評価」であるとわかりました。私はなんとなく「個性」というものは描いていれば自然と滲み出て来るもんだと思っていましたが、どうやら違うようです。もちろんある程度天性のものはあるにしても、多くは気の遠くなるような試行錯誤と苦悩の果てに生み出され、運が良ければ世間にも評価されるという類いのものなのでした。

 それら芸術家の苦悩は、20作目に紹介されるジャクソン・ポロックの言葉に最も象徴的でした。「何か新しいことをやろうと思うと、必ずピカソがやってしまっている」。そうか、「やっぱピカソ、半端ねー」と思わず唸ってしまうのでした。

 マハさんが一枚の絵を眺める時、やはりその道の人ゆえに様々なことが頭に去来するようです。美術の歴史や画家の人生、その絵が生まれたいきさつ、今日自分が訪れたこの美術館に収蔵された顛末、それら全てを動員して絵を見ているのだと知りました。それはそれは面白いに違いないですよね。スポーツのあるワンプレイでも、その競技や選手をよく知っている人が見るのと、素人が見るのとでは全く違って見えます。

最後の一枚

 この本で紹介される26枚の絵は、全て巻頭にカラーで収められています。私は読み始める前に、まずそのカラーページをペラペラやったのですが、最後の絵になぜかピタッと吸い寄せられました。右隣には(私でも知っている)極彩色のムンクのアレがあったのに、左ページの単純な構図の地味な絵からしばらく目が離せなくなりました。

 東山魁夷。最後は日本人画家でした。名前は知っていたし、青くてぼんやりした絵を描く人だというくらいの印象です。新聞で見かけたのか、電車の中吊りで見たのか覚えていません。マハさんが最後にこれを置いた理由は読めばわかります。東山魁夷もまた、掛け値なしの真の苦しみの中からやっとの思いで「自分の道」を見つけ出した人だったのです。若い頃、その絵にやはり苦しんでいる自分を重ね合わせ、やがて道を見つけていくマハさん。珍しく?自分のことが情緒的につづられた最後の章もグッときました。

 私は美術の素人ですが、幾つかのマハさんの物語と、この「いちまいの絵」を読んだことで、これからは絵というものを以前より面白く観られるような気がしてきました。それは人生に新しい色が加えられたようでもあります。

 ここまで読んで頂き、ありがとうございました。



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