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自己破産しました。

昨年自己破産しました。
ギャンブルや買い物で破産したのではありません。
ビジネスに失敗しました。


幼少期の思い出

私が9歳の頃、両親が離婚しました。
父親の浮気が原因だったようです。
両親が離婚して30年以上経ちますが、あれから全くち父親に会っていません。

この件に関しては改めて別項で書きたいのですが、私が息子を授かった今、父親と合って話をしてみたいと思うようになりました。

あの母親がパートナーだと他所に安らぎを求めたかったのだろうと・・・。


私の母親の父親、つまり私の祖父は会社を興していました。メリヤス生地を扱う会社です。
繊維業界でした。

苦労に苦労を重ね、祖母を泣かせることも度々あったと聞きます。元陸軍少尉だった祖父はとてもバイタリティーのある、声の大きな人でした。

幼い私や妹には優しかったですが、娘婿には厳しかったようです。
祖父には3人の娘がいました。

長女は嫁ぎました。
次女は婿養子をとりました。
三女は生まれつき足が不自由で今も未婚です。

この次女夫妻が私の両親となります。

次女はマジメな性格でした。
父の会社を継がねばならない、
父が建てた家を残さねばならない、
という2つの大きな課題が常に彼女の双肩にのしかかっていたのでしょう。

私は祖父母と足が不自由な叔母と同居していました。家族は多いほうだったと思います。
逆にそれが父の居場所をなくしていったのではないか、と今になって思います。


次第に父の酒量が増え、酩酊して家で暴れたこともあるそうです。
社長である義父と同居、妻はマジメで義父と似たような考えを持っている。
父は小心者な面があったと母は言います。

かれこれ30年会っていないので父のことはあまり覚えていません。父に関する情報は母からの一方的なものなので公平な情報ではないかと思います。


私が9歳の頃。
たしか土曜日でした。
友達の家から帰ってくると祖父母と両親が自宅の応接室で話しています。

子どもながらにただ事ではないことはすぐわかりました。また気を使って別の友達の家に遊びに行くとウソをついて家を出た記憶があります。
それほど気まずい空気だったのでしょう。

それからほどなくして両親は離婚しました。
父は家を出ていきました。
父が出て行ったあと、祖母が泣きながら「強く生きや」と私を抱きしめました。なぜか芝居かかってるなぁ、と冷めたことを思っていました。


小学生の頃

離婚したあと、母はとんでもない教育ママになりました。4年生から塾に行くことになりました。
学校が終わるとすぐに塾に行きます。
塾へは電車を乗継いで30分くらいかけて通っていました。

学年が進むにつれ、塾が終わる時間が遅くなり6年生は9時半まで授業がありました。
休みはありませんでした。


毎日機械のように塾へ行く。
塾では毎月のテストの成績によってクラス分けがされ、成績上位のクラスは塾の幹部クラスの先生が教壇に立ちました。教室は塾本館の建物でした。
私がいたテストの成績が悪いクラスはアルバイトの大学生が教壇に立っていました。教室は本館から離れた雑居ビルの一室でした。

次第に成績が良い人たちとは住む世界が違うんだ、自分は落ちこぼれなんだと刷り込まれていったように思います。
学校が終わるとすぐ塾へ行く。
毎日塾へ行く。

当たり前のように学校の友達と遊ぶ機会はなくなっていき、地元の友人と疎遠になりました。

唯一の楽しみは成績の悪い悪友と塾が始まる前のわずかな時間に塾の近所の駄菓子屋でストリートファイターⅡで遊ぶことでした。
祖母は塾へ行く前によく200円のお小遣いをくれました。それで1プレイ50円のストⅡをやっていました。


この頃ほぼ毎日のように塾から帰ると母親に叱られていたように思います。理由は私が勉強しないから。成績が上がらないから。中学受験に受かるかどうかわからないから。といったところでしょうか。
母親のヒステリックな金切り声の怒声を聞くたび心はさらに萎えました。いかに母親に怒られないようにするか、常に母親の顔色を伺っていたような気がします。

さて、6年生も終わりに近づいてくると中学受験がはじまります。
私の志望校は中の下くらいの私立男子校でした。
なんの奇跡か、私は合格しました。
合格してしまった、のです。

合格したとき、母はとても喜んでくれました。
兼ねてから欲しかったバーコードバトラー2を買ってくれました。このときの母の喜びようはすさまじく、塾の合格記念誌に「○○(塾の名前)に栄光あれ!」という死ぬほど恥ずかしい塾を賛美する文章を寄稿していました。


灰色の6年間

私が入学した学校は中高6年一貫の男子校。
何年か前に共学になったようです。
中高6年の記憶はあまりありません。

イヤなことはありませんでした。
逆に嬉しいこともありませんでした。
ただただ毎日が過ぎていくだけの6年でした。


一応進学校だったので、中学1年のころから国公立大学へ入るためのカリキュラムが組まれていました。当然部活はありません。正確には部活はありましたが、勉強してたら部活の時間なんかないはずや、という学校からのプレッシャーがあり、部活をしている生徒はほんの一握りでした。


私はここでも落ちこぼれでした。
勉強もできない。
部活もしない。
アルバイトは禁止。
男子校なので恋愛もしない。
今思い返してもこの6年、何が楽しくて生きていたのかわかりません。

「国公立大学へ入学する」

これがこの学校の、そして母の希望でもありました。



高校3年の夏、進路を決めねばなりませんでした。
当時何の目標も持っていませんでした。

漠然と大学には行きたいと思っていました。
でもどの大学へ進学したいか?
何学部に行きたいか?
どんな勉強がしたいか?
どんな職業に就きたいか?
将来何がしたいのか?

そういったことを決められずにいました。
そんな時、ふと母が「リハビリ関係の仕事なんかいいんじゃないか」
と提案してくれました。


今は理学療法士や作業療法士といったリハビリに関わる職業は
比較的メジャーになったと思います。
養成校も多いです。
当時は養成校もあまりありませんでした。

落ちこぼれだった私が進学できる学校、
当時の私の偏差値で狙える学校をいくつかピックアップし、
願書を取り寄せました。

複数の入試を受けさせてもらいました。
うち一校、岡山県にある某大学の推薦入試に合格できました。
推薦入試は小論文でした。
本を読むことと文章を書くことが好きだったので小論文対策は
苦になりませんでした(いちおう理系のクラスでした)。

そういえば勉強も部活もしていませんでしたが、よく本を読んでいた
記憶があります。学校の図書館にはよく通っていました。
特に司馬遼太郎や吉川英治の歴史小説が好きでした。


ちなみに母校の名誉のために書きますが、私が狙えるほどの偏差値でしたが、決してレベルの低い大学ではありませんでした。
2020年時点では大学の規模も大きくなり、設備も整って優秀な人材を多数輩出しています。


大学生時代~新卒~フリーター


ここでも私は従来の怠けグセが出てしまい、4年制の大学に5年間通うことになります。
大学の5年間はとても楽しかったです。
学業以外に初めてのアルバイト、初めての彼女、初めての失恋etc・・・


紆余曲折を経て無事に大学を卒業できました。
またここで大きな問題が発生します。

当時の理学療法士国家試験は3月にありました。
合格発表は4月中旬です。
新卒採用は4月1日付です。

つまり「国家試験合格見込み」で新卒採用されるわけです。
その理学療法士国家試験に落ちてしまいました。
合格率96%くらいの試験に落ちるのですから、いかに私が怠けていたかがお分かりいただけるかと思います。


国家試験不合格となった時点で正職員契約が即終了となります。
私の場合は正職員ではなくなりましたが、午前中リハビリ助手として勤務させてもらえることになりました。

午前は病院でリハビリ助手、
夜は居酒屋でアルバイトをしながら来年の国家試験に備えていました。



これまで40年生きてきた中で自分で自分のことをつくづくバカだなぁと思うことが何度かありました。


2回目の国家試験に落ちた時もまさにそうでした。


私は2年連続で国家試験に落ちてしまいました。
合格発表当日は情けない気持ちに押しつぶされそうになりました。
そして申し訳ない気持ちもいっぱいでした。
何よりいろいろ援助してくれた母に申し訳ないという思いが強くありました。


合格発表からしばらくは何もやる気が起きませんでした。

しかしニートになるわけにもいかず、アルバイトをすることにしました。
今回は医療職から離れ、日雇いアルバイトをこなすようになりました。


・倉庫でコンテナの荷下ろし、出荷作業
・真夏のラムネ工場でのライン作業、出荷作業
・事務所移転
・大相撲春場所の館内警備
日雇いなので明日がどの現場になるかわかりませんでしたが、この4つが印象に残っています。

特にコンテナ荷下ろしでは中国やタイから来る40フィートコンテナ数本を品番ごとにパレット(フォークリフトで運搬するための荷台)に配置していきます。

ひとつ数十キロある段ボールが数千ケースを手書きの読めない字で書かれた品番ごとにパレットに仕分けていく・・・。
汗まみれになりましたが、「ああ、俺は今働いている!」と実感できる仕事でもありました。

仕事終わりに事務所に立ち寄り、数日分の給料をもらって帰りに立ち飲み屋でキンキンに冷えたビールを飲むのが何よりの幸せでした。


日雇いでアルバイトを続け、3回目の国家試験を迎えました。
事前に国家試験不合格者対象の予備校に通ったこともあり、3度目の正直で念願の理学療法士の資格を得ました。


そして一度採用になりながら私のせいで採用取り消しになった病院の採用試験を受け、晴れて正職員として勤務することとなりました。



道がブレはじめる


理学療法士は非常にやりがいのある仕事です。
ひとつ、不満を述べるとすると「給料が安い」という点です。


新卒理学療法士の給与は手取りで20万円あれば良いほうです。
「経験を積めるから」と謳う病院では10数万円という給与でも珍しいことではありません。


やっと念願の理学療法士になれたのに、私は初心を忘れていってしまいました。



「こんなに働いているのになんでこんなに給料が安いねん」

こんな不満を持つようになりました。
そこから何気なく仕事帰りに立ち寄った本屋でマネー雑誌を立ち読みしていると、サラリーマンでもできる副業特集に目を奪われました。


今は副業が珍しいことではありません。
副業を推奨している企業さえあります。


私はサラリーマンでもできる副業の勉強に時間を割くようになっていました。


勉強するだけでなく、実践したくなりました。
まず「せどり」をはじめました。
せどりとは簡単に言うと「安く仕入れて、高く売る」ことです。

私の場合は本の販売をはじめました。
はじめは自宅にあった本をAmazonで販売しました。
そしてブックオフで105円の本を仕入れ、Amazonで500円くらいで売るようになっていきました。


繰り返していくうちにどんどん面白くなっていき、せどりの教材を購入したり、関連のセミナーや勉強会に参加したりするうちに理学療法士の給料を超える収入を得られる可能性に気づきました。


こうなってくると本の転売だけでは物足りなくなり、海外から雑貨やおもちゃ等を輸入して販売するようになりました。
より売上を伸ばすためにAmazon販売のコンサルティングも受け、もはや副業ではなく本業になりつつありました。


そこで私は大きな決断をすることなります。

病院を退職し、独立する道を選びました。



病院を退職するということは理学療法士を辞めることを意味します。
(理学療法士は基本、医師の指示の下でなければ働けないため)
そのころ私は結婚し、娘が1歳の誕生日を迎えた時期でした。

まわりからは
「安定した職を辞めるなんてもったいない」
「失敗する」
「また理学療法士になればいい」
「本当に上手くいくのか」
という意見をたくさんもらいました。


私は上手くいくに決まっていると信じていました。
そしてもらったこれらの意見は3年後に現実のものとなります。


独立当初はAmazon販売を中心に行っていました。
仕入れ先はアメリカから中国、国内メーカーへ変わっていました。
競合の多い仕入品の販売から自分で商品を開発して販売したいと思いようになりました。


当時はとにかくやってみることを意識していました。
半分くらいの理解でもまずやってみる。
これが良いのかどうか、今でもわかりません。

ただこのころは自分の実力を過信しすぎていたと思います。
客観的に自己分析ができていなかった。
これに尽きると思います。

ご存知のとおり、Amazonの成長は著しいです。
出品者もどんどん増えています。
そして競争も厳しくなっていきます。
もはやAmazonは私のように自己分析のできない中途半端者が闘い続けられるリングではありませんでした。


Amazon販売と並行して自社商品開発もすすめていました。
消耗品をリピート購入してもらおう、と考えました。
私が候補に挙げたのは医薬部外品の入浴剤でした。
商標登録もし、販売サイトも専門業者に依頼し・・・、
どんどん自分の首を絞めていっていたのです。


資金繰りは最悪でした。
ましてきちんと会計の勉強すらできていません。
税理士にも相談していたのですが、、担当者運がなかったです。

複数の借り入れ先からの返済に困窮していました。
さほど売上が上がっていないのに勉強のため、と思って高額セミナーに参加したり、コンサルティングを受けたり、販売の目処が立っていない商品の商標を取ったり、販売サイトを作ったり・・・
もう何を、どう手を尽くしたらいいかわからなくなっていました。


それでも毎月毎月、支払いの期日がやってきます。
支払いを待ってもらったことも一度や二度ではありません。

二進も三進もいかなくなり母に自宅の土地を担保にしてくれないかと相談しました。
実家を担保に融資を受けようと思ったのです。


私の実家は大阪市内にあります。
約60坪あります。
先祖代々受け継がれてきた土地と聞きます。

私の思いを聞き入れてくれ、母は大切に守ってきた土地を担保に差し出してくれました。



せっかく実家を担保に入れ、融資を得ましたが結局は月々の返済額が増えただけでこのままでは担保を差し押さえられてしまう一歩手前まで追い詰められました。


そして詳細は端折りますが、弁護士に相談すると、即自己破産をすすめられました。



なぜ独立しようと思ったのか?給料が少ないとなぜ不満なのか?

理学療法士として病院勤務をしていたころ、給料に不満を持っていました。
勤続約10年で手取りが約21万円。

一般的には十分なのかもしれません。

しかし私は少ないと思っていました。
もっと稼がなくては、と思っていました。


それはなぜか?


「実家を建て直し、母と二世帯住宅に住む」


という夢があったからなのです。

実家は約60坪あります。
大阪市内の物件としてはそこそこの広さだと思います。

そして小さい頃から自分はこの家を守っていかねばならないんだ、という思いがありました。
身近に女手ひとつで祖父から受け継いだ家を守ろうとしている母の影響なのかもしれません。


一度実家を解体し、建て直すとどれほどお金が必要か試算してもらったことがあります。

「5000万円」

と試算されました。

正直手取り20万そこそこのサラリーマンでは実現不可能だと思いました。
そこでマネー雑誌などを読みあさり、収入を上げるにはどうしたらいいかを模索していった結果、Amazonで副業、独立という流れになりました。

そこで致命的だったのは
・自営業、経営者の仕事をわかっていなかった
・数字に弱い
・楽観的すぎる
・過剰に自信を持ちすぎた
・詰めが甘い
・要領が悪すぎる
という事業を運営していくにはあまりに無知、あまりに幼稚でした。

結局私がやっていたことはおままごと、ビジネスごっこだったのです。


これ以上書くと本当に泣きそうになってしまうのでまた別の機会に書きたいと思います。


何はともあれ、早急に生活を立て直す必要がありました。


今の自分に残された資産は何か?


自問したときに出た答えは「理学療法士の資格」だったのです。


再び病院勤務に

再度私は病院勤務の理学療法士となりました。
再就職先は以前勤務していた病院とは別の病院です。

ここでも手取りは20万円ちょっとです。

給料にまったく不満がないわけではありません。
また良くも悪くもサラリーマン的な考えが持てずにいるので職場の人とは全く馴染めず、仕事以外の会話をすることはありません。

昼休みは近所のコンビニへ行き、店外で持参した見切れ品の食パンをかじるランチを取る日々。


しかし理学療法士という仕事はやりがいのある仕事だとつくづく思います。
自分のしたことで患者さんの痛みを緩和できたり、気が晴れたと言ってもらえるととてもうれしいです。


自営をしていたときは毎日パソコンと向き合う日々。
自分が販売した商品を使うお客さんが見えない。
とかく1円でも安くしろと値引きを迫られる。


少なくとも理学療法士としての腕を値引きを迫られることはありません。

ようやく自分の強みは何なのか、わかりました。
遅すぎましたが。。。


妻は私が自己破産して以降、倹約をしてくれています。
子どもたちには窮屈な思いをさせています。
母とはまったく口をきかなくなってしまいました。

母にとって本当に守りたかったものは何なのか、今でもわかりません。
時がすぎたとき、折を見て聞いてみたいと思っています。



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