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太極拳はなぜ広まったのか?エピソード12

露禅は武禹襄の強引なこじつけにあきれていた。
禹襄はそんなことおかまいなしに露禅に提案した。
「そうだ、露禅、お前も『綿拳』なんてダサい名前つかわずに『太極拳』と名乗れ。」
「禹襄、おれまできさまのこじつけに巻き込むつもりか?あとで面倒なことになるのはごめんだ。」
「露禅、だからお前は頭が固いというんだ。おれが許す!おまえも『太極拳』と名乗れ!そうだな、おれが武式太極拳だから、お前は楊式太極拳だ!」
「ん~ん、楊式太極拳かぁ。いい響きではあるがなあ。後で面倒なことになるのは・・・・・。」
「露禅!心・配・御・無・用!そうしよう!それがいい!」
「わかった。そのかわりあとで面倒なことになったら、お前責任とれよ!」
「まあ、最悪の場合、おれがなんとかするから心配するな。」
この日から露禅は「楊式太極拳」と名乗り、広く伝わっていった。
さいわいにして、特許侵害の問題もおきなかった。

露禅は、各地で武術の名手たちと手合わせし、その実力を武術界に知らしめた。皇室からも声がかかり武術教師として招かれ、皇帝をはじめ皇族の人たちにも楊式太極拳を教えるようになった。
しかし、皇帝に教えるのに手荒なことはできない。体力もない。
そこで露禅は体力がなくても継続できるように太極拳の型をゆっくりと柔らかく行うように改変していった。
太極拳は弱い力でも強い物に勝てるというふれこみなら、体力がない人達に柔らかい型を教えるということも矛盾はしない。
「四両をもって千斤を挙げる」というキャッチコピーのもと、体力のない文人学者にも広まっていった。
やがて楊式太極拳は中国全土に広まっていった。
そこで面白くないのは陳一族。
楊露禅に武術を教えたのは俺たちだ。
なんで、あいつばかりもてはやされる。
あいつが「楊式太極拳」なら、その元祖である俺たちの砲捶は「陳式太極拳」だ。
陳一族の門外不出の砲捶は「陳式太極拳」と名前を変えた。
陳一族のプライドがそうさせたのだと思う。

日本では、「楊式太極拳は体操になってしまったが陳式太極拳は武術のまま伝えられている」といった偏った情報が広まっていった。

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