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誰でも使える鎧を拾い、纏う。

大学4年の頃、金髪にしていたことがある。

あれはちょうど所属していたNPO団体のワークスタイルが変化したタイミングで、それまで担っていた役割や責任から解放された反動によって、やたら気の赴くままに生きたいという願望が強くなっていた頃。

そして、その思いは2ヶ月に1度髪色を変えるという奇異的な行動となって顕れた。Saucy Dogの「今更だって僕は言うかな」の歌詞にある「黒からゴールド 赤 黒 それから青って一体」のように、度々髪色を塗り替えることをしていた。(ちなみに、赤じゃなくてピンクにはした。)

塗り替える髪色それぞれに意味なんてなかったけど、金髪だけは特別だった。

あの頃の金髪に対する捉え方としては「やんちゃ」で「イケてる」人がするもので、自分とは正反対に位置する&心理的に距離があるものだった。しかし、だからこそ、金髪にすれば「違う自分」になれるかもしれないと思い、冒険してみることにした。

想像以上に効果は絶大だった。

金髪にする前は、1人で深夜に出歩くこと、それこそ、やんちゃそうな人達でごった返す歌舞伎町を歩くようなことは到底できなかった。心細いから必ず誰かを連れていたし、1人の時は常に過度な後方確認をしていた。ところが、金髪にした途端どこからともなく「私は強い!無敵!」みたいな変な自信が湧き、心細さは消え、時間や場所を問わず歩けるようになった。

周囲のウケもぼちぼち良かった。バイト先でお客さんに自己紹介する際に「◯◯大学の法学部で」と言うのが定番だったため、「(ギャップが)すごいね」と声をかけてもらうことが多かった。自らコミュニケーションを取ることが苦手な私にとって、金髪を入り口として話が進むのはすごく楽だったし、金髪じゃない時より気持ち前のめりに話せる自分がいた。

ここまでの話を踏まえれば「違う自分になる」という目的は達成されたように見えるが、決して本質は突いていなかったと思う。

前提、「違う自分」になれたのは金髪という手段を用いたからであって、事実、それを以て得られた変化は部分的且つ一時的だった。そもそも、理想の自分があった訳でもなく、それに向かって努力をした訳でもない。ただ、なんとなく「違う自分」になれるならと思い、ブリーチのちょっとの痛みを耐えただけ。言わずもがな、そんな努力で「違う自分」になり切れる訳はない。それなのに、1つや2つ変わった部分があると全部が変わったと思い込んでしまっていた。

結局、金髪にすることは「誰でも使える鎧を拾い、纏う」のようなものだった。金髪は心細さや人との距離感が分からないという弱さを覆い、強く見せてくれる鎧だった。鎧を纏うことで「違う自分」になれたが、それは同時に、鎧を脱ぎ捨てれば何も変わっていないことを意味した。金髪じゃなければ、そわそわしながら歌舞伎町を歩き、途切れ途切れなコミュニケーション。弱さは弱さのまま残った。

「違う自分」になりたいのなら、もっと努力の仕方があったはずだし、普遍的なものを手にして得られる結果なんて知れていると、なんで分からなかったんだろう

と、暗い髪色になった鏡に映る自分を見つめ、金髪だった時の自分を回顧していた昨日。





とはいえ、金髪は可愛い。



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