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割れ目があるお皿でもいい。

土曜日、蔦屋書店で「メメンとモリ」を読んだ。

モリ(弟)は、メメン(姉)が作ったお皿を割ってしまい、「世界にひとつしかないお皿なのに…」といつまでもクヨクヨしてしまう。そんなモリを見て、メメンは「大丈夫よ、また作ればいいんだから」と励ます、そんなお話。

記憶が定かではないけど、メメンは壊れたお皿に対して「物はいつか壊れてしまう」と割り切っていて、その上で、壊れるまでの過程で「どんな意味をもたらしてくれたのか」ということに目を向けられたらいいよね、と言っていた。そして、壊れたのならまた新しく作って、ストーリーを紡いでいけばいいとも言っていた。(多分)

物はいつか壊れてしまう。

それは人間関係にも、自分の人生にも言えることで、メメンが言うことは一理あると思った。でも、100%は共感しきれなくて、帰りの電車でずっともやもやしていて、考えてみた結果、私は「割れ目があるお皿」でもいいから、壊れたものもなるべくなら修復したいと望んでしまう人間だった。

たとえば、「花束みたいな恋をした」の絹ちゃんと麦くん。2人が別れた後に同棲をするシーンを見て、当時大学2年生だった私は「え、まだやり直せるよ」と思ってしまった。上映後もとにかく納得できなくて、一緒に観にいった先輩に「分からないです!!」と訴え続けていた。(2年経った今はまた違う見え方ができますが)また、「修復したい」と望む考えは好きな歌にも反映されていて、マカロニえんぴつの「恋人ごっこ」の歌詞、【「ねえ、もう一度だけ」を何回もやろう、そういう運命でいよう】というフレーズがとてもすきだったりする。

話は戻るが、割れたお皿を直すとなれば跡が残るわけで、1度割れてしまっているから脆くなる。結果的にまたすぐに壊れてしまうのなら、直すためにかける労力がもったいないという見方もある。結局、絹ちゃんと麦くんはヨリを戻すことはなかったし、恋人ごっこの最後も「さよなら」で終わってしまっている。そう考えたら、修復するなんて考えはとても短絡的で、無意味なのかもしれない、とも思う。

だから、メメンの言う「新しく作る」という選択はとても合理的なのかもしれない。そして「壊れてしまった物」には「どんな意味があったのかを考える」という行動。それは、次に新しく作る物や、縁を結んでいく人へと還元されていく。きっと自分の人生を豊かにしていくための糧となっていくのだろう。それも分かる。

分かるけど、私は、それが全てだとは思いたくはない。壊れたものでも、終わったものでも、それを修復できるのなら、その可能性を取ってみたいと思う。そこに割く時間やお金、労力に対して、どれだけのリターンがあるのかという考え方だけじゃなくて、生産性も効率性も気にしない、もう一度だけ、を感情のままに信じられる側面を持った人でありたい。

割れ目があるお皿も味わい深いと思うんだけどなあ。




メメンとモリ、読んでみてね。




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