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げんきです。

気づいたらもう1ヶ月ほどnoteを書いてませんでした。

びっくり。

言葉にして残しておきたい出来事もあったけど、その力が生まれなくて、そんな日々がただ連なってしまったなあという感じ。それだけ。これを人は「げんきがない」と言うのかもしれないけど、決してそんなことはない。

会社でBBQをした時は、パリピの大学生が飲むような“ちっちゃい瓶のリキュール”を飲んだし。同期とリアル脱出ゲームのお化け屋敷版に行った時は、しっかり1人だけ叫んだし。友人の家にお邪魔した時なんかは、作業机にマヨネーズが置きっぱなしなのが気になりすぎて「なんで冷蔵庫にしまわないの?」と食い気味に問い詰めた。いま話題のジブリ作品「君たちはどう生きるか」を観に行った時は、上映時間より早く着いてしまったから、友人を待つ間「映画を観る前に読むべき」みたいなnoteを読んだりした。でも、結局、内容はさっぱり分からなかった。

振り返れば、力を入れるところにはちゃんと力を入れて生きていた日々だったなあと思う。だから、やっぱりげんきに過ごせていた。

とはいえ、力を入れて生きるというのは疲れるもので。

“ちっちゃい瓶のリキュール”とはかけ離れた大学生活だったものだから、未知なるものはちょっと怖かった。脱出ゲームは非日常の空間すぎて、やたら気を張っていた。作業机にあるマヨネーズは、まるでペン立てのような風貌で、あたかも「自分の居場所は最初からここです」と言わんばかりに突っ立っていたから、とても理解に苦しんだ。ジブリ映画は、理解しようと言う意気込みと結果理解できなかったというギャップに落胆した。

怖いと思うのも、気を張るのも、理解に苦しむのも、落胆するのも、それをするためのエネルギーが必要だったりする。エネルギーがあったのだから、やっぱりこの1ヶ月はげんきだった。

ただ「げんきだった」ことを証明したいやつになってしまっているけど、ここまで書いておいて、そもそも「げんきとは?」みたいな疑問が浮かぶ。国語辞典によると「心身の活動の源となる原動力」を「げんき」と言うらしい。

冒頭に、noteを書く力が生まれなかったと書いたが、正しくは「やる気がなかった」のかもしれない。もしくは、すごく良く言えば、自分の体験とその時の感情を世間に知らしめるのではなく、あくまでも特別なものとして、自分の内に秘めておきたかったのかもしれない。

こういう場合は綺麗な片付け方の方が気持ちよく終われるから、この1ヶ月は特別な体験が重なった時間ということにしておこうと思う。



にしてもマヨネーズの居場所には
納得がいかないよなあ。





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