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無言 18
パン屋さんでいつもの熱々なカレーパンを買って帰宅すると、薄い緑色のドアの前で元嫁が待っていた。その横に今日はツレがいるらしい。グレーのトレーナーを来た男性は小さな子供の手をひいていた。子供はまだ保育園にあがる位か?いつも公園で挨拶する子供達よりも少し小さい位だろうか。ドクドクドク。心臓の鼓動が急に早くなった。子供に話しかけるように視線を向けていた男性が振り返って目が会った瞬間、僕は頭の中が真っ白になった。
何年ぶりなんだろう。そこに立っていたのはまぎれもなく息子だった。
青いジャンパーを着て一生懸命ちいさな足をゆらせてブランコを漕いでいた3歳の少年。うまく漕げなくてブランコの揺れが小さくなる度に、もっと!もっと!とせがまれて何度も押した小さな背中。電車が大好きで散歩途中に踏切までくると、右へ左へ行き交う電車を飽きもせず眺めていた横顔。目を離すと踏切に突進しそうな勢いで、大昂奮の彼が飛び出さないようにぎゅっとつないだ手。3歳の小さな手。
僕の中の息子の記憶はそこで止まっている。
いつも僕の右手とつながれていた、その手の感触を思い出そうと自分の右手に視線を落としてみる。けれども、僕のそれはピクリとも動いてくれない。ただ、だらんと重力に抗うことを忘れたかのように右側にぶら下がったままだ。ふいに寂しさが襲ってきた。3歳の息子とつないだ右手の感覚はもう蘇らない。自然と杖を握る左手に力が入った。立ち尽くす僕を不思議そうに眺める小さな男の子は、記憶に閉じ込められていた3歳の息子にそっくりな顔をしていた。
「正人。連れてきたのよ。こっちは貴方の孫の由人。」
元嫁の尚子は、瞬きすらできず動けずにいる僕の側まで来て、男の子を手招きした。
「よっくん。こっちにきてごらん。」
コクリとうなずいてトコトコ近づいてきたその子は、僕の力の入らない右手にスルリと小さな手を滑り込ませた。
「おてて。けがしたの?いたい?」
鼻の奥がツンと熱くなった。僕のぶっこわれた涙腺のバルブがいとも簡単に緩んでいく。ジワジワ。ポタポタ。ボタボタ。大粒の涙が溢れた。僕の手を大事に両手で包むようにしながら、涙の主をみあげて
「いたいの?いたいの?」
と、男の子は聞いた。
否定しようとするけれど、言葉よりも先に涙が溢れ出てとまらない。違うんだよ。痛くないんだよ。嬉しいんだよ。そう心で叫びながら、涙のバルブを締めることもできずに、ひたすら墜ちていく涙で頬をぬらしたまんま首を何度も横に振った。
「ぼく。よっくんだよ。」
ボタボタ落ちる涙が頬をつたう。
今度は大きく頷いた。
不安そうだったよっくんはニッコリ笑った。
その笑顔につられて、僕も泣きながら笑った。笑いながら泣いた。
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