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無言 21

かつて家族だった僕らは、その頃には存在すらもなかった「よっくん」の存在に助けられながら、久しぶりの時間を過ごした。めずらしく、僕のぶっこわれた涙腺のバルブは緩まなかった。3人は僕を家の前まで送ってくれた。鍵を開けるのに相当な時間を要してしまう。ずっと一人でゆっくりと過ごしてきた自分にはあまりにも色んな刺激がありすぎて、さすがに僕も疲れていたのかもしれない。小さな鍵穴に、鍵はなかなかささらなくて角度を変えた瞬間にチャリンと落としてしまった。僕の手から滑り落ちた鍵は、よっくんがすぐに拾ってもってきてくれた。
「おじいちゃん。はい。」
鍵を差し出す小さな手も、一生懸命なしぐさも、あまりに可愛くてぎゅっと抱きしめたい位なのだが、僕の右手は思うように動いてくれないから、左手で握手をしてありがとうと言った。小さな手をつつむように握ると、よっくんは少し照れたように笑った。幸せな時間だった。その日は嬉しすぎてなかなか眠れなかった。

「そうなんですね。良かったですね。」    佐々井さんは目を潤ませた後、何度もうなずきながら僕の話を聞き、そして笑顔になった。週に一度の言葉のリハビリ。デイケアのザワザワした部屋で、息子と孫に出会えたこと。一緒にファミレスに行ったこと。を話す。
言葉はなかなか浮かばなくて、何度も会話は中断する。いや、もはやそれは会話じゃなくて僕が紡ぐ片言の間違いだらけの単語と、つたなすぎるジェスチャーをヒントに、佐々井さんが僕の言いたいことを想像して答えを出す。といったクイズのようなコミュニケーションだ。

「えーっとな。えーとな。」
「よ。め。」

「よめ?よ。め。嫁か。あ。尚子さん?」

「で。。。の。」
小さいという意味で、背の低さを手で表す
「ん??小さい?低い。。。」

佐々井さんが、紙に尚子さん。と書いてくれる。
僕はそれを指して、次に自分を指して、小さいというジェスチャーを繰り返す。
「うーん。尚子さんと僕。小さい。。。うーん。ん?子供?」

「あ!わかった息子さんか。」

僕が大きくうなずく。
「え!息子さんが来たんですね!おー!すごいじゃないですか。」

と言った具合だ。

20分しかないリハビリの時間はそれを伝えるのにほとんどの時間を使いはたして、あっと言う間に終わってしまった。それでも伝えられた充足感は大きい。そして、
「良かったですね。良かった。」
と喜んでくれた佐々井さんに
「ありがとう」
と深々と頭を下げた。
あなたのおかげ。みんなのおかげ。と本当は言いたかったけれど、感情が高ぶりすぎて言葉は出なかった。そして、言ったらまた際限なく涙が溢れそうでやめておいた。

人生は何が起きるかわからない。ここ数ヶ月失ってしまったものは数しれない。暗い中で閉じ込められたように眠り続けた日から再び目覚めて、自分の今の状態と向き合う日々。はじめはすべてがボンヤリしていた。頭も身体もどこか他人のもののようで、現実感が全く無い。自分の頭の中のボンヤリした部分が段々焦点が合うようにクリアになってきた頃、僕は出来なくなってしまったこと。失ってしまったこと。そして、その隙に騙されてしまっていた事実と向き合わなくては行けなくなった。再び絶望という名の断崖絶壁に突き落とされる。孤独な海にズブズブ沈んでいく自分。
もうこのまま沈んだままでいい。とさえ思っていた。

そんな僕に、もう一度出会ってくれた尚子。正人。そして、よっくん。
尚子や正人はどんな気持ちで今までいたのか。自分が父親としても、夫としても随分至らなかったから離婚に至ったこと。そして人と暮らすことはもう二度とない。一人で生きて行こうと考えていたこと。今更ながら何十年か前の自分の気持ちを思い出す。

一人で生活してきた。特に不自由もなくて楽だった。でも別れてしまった尚子や正人の事を思うと苦しくなった。だから自分からその気持ちと向き合わなくてすむようにギュウギュウと自分の片隅に押し込めてきたのだ。そしてぴっちり蓋をしてきた。長く長く蓋をしてきた思いは、今あふれだして自分のなかでどんどん膨らんでいく。  

「今日が誕生日って聞いたから。」
正人は一人でブルーのリボンのかかった包みを持ってきた。完全に誕生日の存在を忘れていた僕はポカンとしてしまった。

「6月23日でしょ。今日。」
「こないだ鍵落としてたから気になって、落とさないようにこれ、買ってきたんだ。」
ブルーのリボンを解いて包み紙の中を見るとキーホルダーのようなものが入っていた。
「これに鍵つけて、キーホルダーをカバンとかにつけといたら落とさないで行けるよ。使う時は伸びるようになってるから。」
キーホルダーを手にとって使い方を説明してくれた。
「鍵。かしてくれたら付けとくよ。」

ポカンとしながら言われたとおりに鍵を手渡すと、正人は鍵をキーホルダーにはめて、そのキーホルダーを僕がいつも使っているリュックサックに下げてくれた。僕に試してみろ。というので、玄関でリュックサックを背負ったまま、鍵をキーホルダーから伸ばして開けしめしてみる。




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