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無言 24

とうとうその時が来てしまったんだな。私は尚子さんの言葉を思い出していた。

突然彼女が病院に来たのは、いつの事だったか。「私には新しい家庭もあるから、行くことは出来ないですし、もう連絡しないで下さい。」電話越しに言い放たれてから10日程たった日の事だったと思う。

優子さんから内線がかかってきたのは、お昼前で、午前中の訓練を終えた直後だった。
「あなたと話がしたいという人が来てるのよ。相談室に来てくれる?」

私は午前中最後の患者さんを病室まで送っていき、その足で相談室に向かった。明るい水色のワンピースを来た女性は深々と私にお辞儀をした。
「先日お電話を頂いた水野尚子です。」
電話口で聞いた声とは全く違う穏やかな口ぶりだった。

「わざわざお電話いただいたのに、あんな対応しかできなくてすみません。突然の事で気が動転してしまっていたのです。」「少し長くなってしまいますが、お話させていただきたいことがあって来ました。」

私は時計を確認した。お昼一番の訓練まではあと一時間近くある。

「わかりました。30分位なら大丈夫です。」

そして私はその時に尚子さんから、彼女の病気の事を聞かされたのだ。離婚してから全く会ってはいなかったこと、再婚してからは養育費ももらわずに生活していたこと。

「正直、もうあの人とかかわることはないかな。と思っていました。でも私がいなくなってしまったら、息子は実のお父さんに会いたくても会う機会もなくなってしまうのか。と考えたら複雑で。だから今の夫に相談してみたんです。いい機会だから会ってきてもいいんじゃないか。って。」

「ホントの事を言うと、まだ悩んでます。でも、私がもう長くないこんな状況で、佐々井さんが電話下さったのは、何か見えないものが私達をもう一度引き合わせようとしているのかな。っていう気がして。」

尚子さんは、悩みながら、その後奥田さんに会うことを決めたのだった。自分の病気のことは伏せておくということも、その時に話していた。奥田さんが退院するときには、彼の生活が落ち着いたら息子には会わせるつもりをしている。色々お世話になりました。と挨拶に来てくれた。それ以後私は彼女には会っていない。息子さんとの話は奥田さんが聞かせてくれた。嬉しそうに話す姿を見て、どうにかキーパーソンになってほしいと尚子さんにすがる思いで電話をかけた事を思い出す。冷たい声で電話が切られた時、完全に望みの糸は切れたと思っていた。でも繋がってくれたのだ。その糸は深い底にいた奥田さんを引っ張りあげてくれたのだ。

今朝。奥田さんが体調が悪いから訓練を休む。とケアマネさんから連絡が入っていた。奥田さんが?めずらしいな。今まで休んだことはないのにな。ザワつく心を抱えたまま1日の仕事に追われ、ひと息ついたその日の夕方、優子さんが訓練室にやってきた。

「尚子さん。入院したみたいよ。」

ザワザワの理由はそこだった。そうではないかと心の隅で思っていたことが、ストンとハマった。

「奥田さんには、息子さんから病状が伝えられたみたい。ショックだったんだろうけど、また血圧が下がってしまって看護師さんに緊急で訪問してもらったって。でも大したことはないって事だったわ。」

とうとう来たるべき時が来てしまったのか。次の訓練には来てくれるだろうか。重い気持ちのまま今日のカルテを書く。パソコンに向かうもののなかなか進まない。マグに入っていたコーヒーが冷めていたので、新しいコーヒーを入れ直そうとポットに手を伸ばす。ポットの横に置かれた白い小さな鉢。黄色い薔薇はキレイに咲いてきていた。奥田さんが退院するときに尚子さんが持ってきてくれた花だった。尚子さんが勤めている薔薇園のもので、病院だからあまり香りの強くないものを選んできました。本当は切り花の方と悩んだのだけど、長く楽しめるのは結局鉢の方なので。育て方でわからないことがあれば聞いてくださいね。と手渡してくれたカードには連絡先のメールアドレスが書かれていた。

「もし私に何かあったら、佐々井さん。あの人の話を聞いてあげてくださいね。最後まで私が側にいられることはないだろうし、あの人が越えないといけないことはまだまだあるんだろうから。」    尚子さんは言いながらこの薔薇を私に手渡してくれたのだった。

もし何かあったら。が、無いことを願いたかった。再会した息子さんとお孫さんとの穏やかな時間の話をもう少し聞いていたかった。

なかなか進まない仕事を早めに切り上げて、私はいつものお店へ向かった。今日は沢山のお客さんで賑わっていた。ビールを注文して周りを見渡す。いつになく賑やかな店内で、ふと見ると綺麗な薔薇の花がカウンターに飾られていた。色とりどりの薔薇がバランスよくガラス瓶を彩っていた。華やかな色彩に思わず見とれてしまう。繊細な花びらの陰影があまりにも美しい。漂ってくる香りはなんとも優しくて、朝からザワザワしていた私の心を沈めてくれた。訓練室の薔薇ももうすぐキレイに咲くはずだ。奥田さん。尚子さんに会うことができるのかな。会えたらいいな。





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