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無言 22

「大丈夫?使えそう?」
と聞いた正人に僕が大きく頷くと、彼は満足気な笑顔で、
「良かったら使って。」と言い残して帰っていった。

そんなわけで僕のリュックサックに装着されたキーホルダーは、家を出るときと帰宅するとき必ず手にする。一人暮らしの僕は、家にいるときに誰とも話すことはないけれど、鍵を手にする度に正人を思うようになった。出ていく為に鍵を閉める時は、心の中で行ってきます。を言い、帰宅して鍵を開ける時は、ただいま。とつぶやく日常。そんな些細なことがジンワリと心を温かくする。正人からもらったプレゼント。小さな鍵用のキーホルダーは僕の日々に温かな風を吹き込んでくれた。


あつい。暑い。

散歩後、汗だくになりながら家の前で鍵をとりだす。「ただいま。」ガチャリと鍵を開けて誰もいない部屋につぶやく。部屋に踏み入れると暑い空気がむわっと僕をつつんだ。部屋の中で温められた空気は出口のないままその空間を満たしている。ちょっとやそっと窓を開けて換気したところで、この暑さはどうにもならないはずだ。すぐにエアコンのスイッチを入れ、冷蔵庫を開けて冷えた水を喉に流し込む。乾ききった身体にコップ一杯の水はただ喉元を通り過ぎただけで全く体に染み込んでいかなくて、僕は立て続けに三杯をゴクゴクと飲み干した。
喉をすぎていく冷たい感触に
ふぅー。
と大きなため息がでた。
汗で身体にまとわりついてたシャツを着替え、エアコンがやっと部屋に涼しい空気を送るようになって、ようやく一息つく。

夏は好きな季節のはずだが、動くのに時間がかかる今は、少し動いただけで滝のように汗が流れ出す。ひとつの動作ごとに頭からバケツで水をかぶったのかと思うほどだ。暑さは体力を奪い、食欲を奪う。近頃食べる気がしなくて少しバテ気味だ。動くためには、食べなくては力が出ない。

ああ。今日の昼ごはん何を食べようか。そうめんでも湯がくか。あとなんかちゃんとしたものを食べなくちゃなーと、冷蔵庫を開けた途端携帯が鳴った。
テーブルに置いた携帯を確認する。
正人からメールが届いていた。

「母が入院しました。詳しくはまた話します。」

さっきまで暑かった体が、途端にひゅっと冷たくなった。
入院?尚子が?どうして?
頭を埋め尽くすハテナマーク。いつ出会ったんだったか。元気だったけどな。事故?ではないのか。病気か?正人に電話しようかと思ったが、今は彼は仕事の時間だろう。ざわつく心を静めるためにとりあえず湯をわかした。

尚子は目を閉じてベッドに横たわっていた。ベッド横のモニターが心臓の鼓動が規則正しいリズムを刻むことを知らせていた。つい一年位前の自分はこうだったかもしれないと微動だにしない彼女を見て思い返していた。口につながれた酸素マスクが大きすぎて、小さな尚子の顔は半分位隠れてしまっていた。かける声もさがせないまま呆然とベッドの横に立ち尽くす。白い空間にある四角い窓からは外の景色が見えた。空は雲ひとつなくなく青く澄み渡っている。その空の青さがなぜか今の自分には痛くて、行き場のない悲しみが押し寄せてくる。泣いてはいけない。と喉の奥に力を入れてこらえてみるが、涙が溢れ出すのを止めることはできなかった。

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