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アンスクールを紐解く①

アンスクーリングの根底に流れるのは「人は生まれながらにして学びたいという欲求がある」ということです。

生活と人生を取り囲むもの「全てから学びを得ることができる」というスタンスです。

親の役割

アンスクールでは親が子供のガイド役になると書いてあることもありますが

ガイドとして導く、というより親は子供に忍者のようにそっと付き添う、連れ添う、そしてちょっと先を見て子供の興味のありそうなものをそっと差し出す役割、と言った方が正確かもしれません。

そして差し出すというのは本当に「こんなの見つけたから置いとくね」「この間◯◯のことを調べてたみたいだけど、YouTubeで似たようなのを見かけたからシェアするね」「こんな展示会があるけど、どう?」と言った感じです。

子供がそれに興味を示しても示さなくてもどっちでもいいというスタンスです。

あくまでも「差し出してる」「提案してる」「もしかしたら役に立つかもしれないから置いておく」という黒子の役割です。

大切なことは親が子供の興味の度合いを勝手に決めて親が過剰に反応しないことです。

子供がレゴで建物を作るのが好きだからといって「この子は将来建築家ね」と飛躍しない。。。

その理由は、無意識に子供の興味や関心ごとに優劣をつけていることが子供に知れるからです。

子供は親の顔色や反応をとてもよく見ていて、親の喜ぶことをしたいというのは自然なことです。

過剰に喜ぶ=親が認めている、無反応に近い・興味ない=親はあまり認めていない、という公式はすぐに出来上がります。

アンスクールの一つの定義が「全てのことが学びになる」ということをここで再度強調します。

例えば子供の興味が「レゴ、お絵描き、読書、昆虫採集、スポーツ」などである場合と「YouTube、ビデオゲーム、テレビ」である場合、パッと上がる感覚や考えに違いはありますか?

アンスクーリングに徹底的に必要になるがディスクーリングです。

ディスクーリングとは自分の今までの常識と思っていたこと、疑いもせずに言ったりやったりしてきたことを一から問い直すことです。

「レゴ、読書、スポーツ、お絵描き、昆虫採集」はいいけど「YouTube、ビデオゲーム、テレビ」が興味と情熱であるのはマズイと思う理由を考えて挙げてみてください。

私はかつては前者でした。

テレビの見過ぎはよくない。

iPadとビデオゲームは依存症になる。

アンスクーリングに踏み切ると同時に私のディスクーリングは深度を増しました。

私はやると決めたら徹底するタイプなのでアンスクーリングをすると決めた日からテレビ、ビデオゲーム、寝る時間、お菓子を食べる時間と量、ご飯を食べる時間、食べるか否か、起きる時間などに一切ルールを設けませんでした。

人様の迷惑にならない限りなんでもあり!好き勝手にしなさい!の生活が始まりました。

ディスクールの大変だったこと。。。

今まで無意識に「だめ」と言ってたことが口をつく前に舌を噛んで言わないようにし、その都度「だめ」と言いたくなる理由を追求しました。

舌がまだくっついてるのが不思議なくらい。

ディスクールは常識を覆したり社会に反抗するためにするのではなく、自分の言動の由来や理由を問い直し理屈が通らなければ新たな価値観を築き親子関係、人間関係、自分自身との関係をより良く、平和に穏やかに喜びにつなげることに意味があります。

アンスクーリングは非常に、非常ーーーーーーにピースフルなんです。

続く

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