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60.網地島の金はどこに運ばれたのか?

前回、網地島は仙台の中心を貫く、東西のライン上にあって、反対の西の端には佐渡の北部に当たることをお話ししました。網地島は伊達家の隠し金山で、佐渡島は金山で有名なことから、単なる偶然と片づけるには、謎が残ります。

歴史のお話しをすると、伊達政宗公の長女の五郎八姫様が徳川家康の五男の松平忠輝と離縁された経緯は、以前にお話ししましたが、その原因を作ったのが、忠輝の奉行の大久保長安です。長安が佐渡金山奉行だったこともお話ししました。

仙台の中心を貫く東西のライン上には、隠れ里と呼んだ栗生の場所に、五郎八姫様の屋敷が重なっているのです。
これは偶然でしょうか、大久保長安が仙台城下に来たという記録はありませんけど、何かに関わっていたかも知れないと想像してしまいます。

さて、隠し金山から産出した金はどのようにして運び、そしてどこに運ばれたのでしょうか。そのヒントは意外な方の情報からでした。

ある時、私は仙台青葉神社の宮司の片倉さんと北上川河口の長面(ながつら)という所に行きました。片倉宮司さんは、伊達家の片倉小十郎の十六代目の御当主で、宮城県白石市のお殿様という立場の方です。
その片倉宮司さんと行った長面は、片倉家の飛び領地だったというのです。それは初めて知ったことでした。片倉家は代々白石の領地を治めていました。一国一城の時代に、伊達家は仙台城と白石城の二城を許された特別なところでした。

その長面には、海から川に入った所に長面浦という入江があり、そこで昔は塩を造っていたといいます。そして驚く情報を話してくれました。

「ここで採れた塩は、荷車に積んで仙台まで運んだのだけど、大手門を取り調べ受けずに中へ運び込むことができたんだよ」

これは代々受け継がれてきた情報で、大変貴重なことでした。前回に、城からの脱出ルートのお話しをしましたが、松島の瑞巌寺から船で脱出する際に、熟練の船頭の水主衆によって船を漕がせて、北上川を遡上する話しをしましたが、北上川河口が片倉家の領地であれば、河口の守備という点でも計画的であったと推察されます。

ここまでお話しすればお気づきのように、網地島の金を北上川河口の長面浦まで運んで、塩の荷車に隠して運べば、城まで誰にも知られず運び込むことができました。このお話しは誰も知らない事で、今回初めて公開しました。

網地島ばかりか、陸前高田の金山から密かに運べば同じルートで仙台城に持って行くことができました。陸前高田の金山は明治頃まで採掘していたらしく、日本の体制が変わるとき、坑道を爆発して金鉱を隠したと伝えられています。まだまだ金は採れるようです。

今回も読んで下さりありがとうございました。感謝いたします。

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