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小説:花【3724文字】

 ドアを開けると、むんっと生暖かい湿気が鼻を覆った。湿った森林のような、くぐもった匂いがする。
「いらっしゃい。あがって」
 友人がスリッパを出してくれる。
「ありがとう」
 僕はスリッパを借りる。こころなしか、スリッパも湿っているような気がする。錯覚かもしれないけれど。玄関をあがって室内に入ると、そこは別世界だった。
「すごいな……」
 僕は、その光景に圧倒された。友人を見ると、ちょっと誇らしいような、得意げな顔だ。友人の部屋は、ほとんどが植物に占拠されていた。わりと広めのマンションのリビングは、小さなテーブルと椅子以外、ほとんど植物だった。もともと好きだとは聞いていたが、ここまでのめりこんでいたとは。
 床には鉢が数えきれないほどおいてある。多種多様な観葉植物が生い茂っている。背の高いものは、ゴムの木だろうか。棚から枝垂れているものもある。ポトスはわかるが、あとは皆目わからない。見たことのないものばかりだ。
「こっちも見てよ。かわいいぞ」
 葉をかきわけて部屋の奥へ進む。友人が案内してくれた棚には、小さなぷっくりしたサボテンのようなものの鉢が二十以上ある。
「これはサボテンか?」
「似ているけど、多肉植物だよ」
 エケベリアパキフィッツムグラプトペダルムははさしができるからじぶんでふやせるんだよ、と友人は言った。どこで区切るのかもわからない、呪文のようで、何を言われたのか全く理解できなかった。むっちりとしていて、指でつまんだらプツリと爆ぜてつぶれそうな葉は、僕の知っている植物の概念から大きく外れていた。
「こっちなんか、けっこういい値段するんだよ」
 壁かけのようになっている鉢を指して言う。
「ビカクシダっていうんだ。流行ってるの、知ってる?」
 それは、鹿の頭のはく製のようだった。壁からヘラジカの角が生えているように見える。平たくて大きな濃い緑の葉は威圧感があり、生命力に満ちている。
「いや、初めて見た。すごいな」
「だろう? あとこれなんか、もっと小さいときから育てたんだ。この大きさなら、20万くらいするぜ」
「20万!」
 そういって友人が見せてきたのは、大きな鉢に鎮座する茶色い物体だった。丸い瘤のような幹の上に、申し分程度に薄い緑の葉がついている。
「ガジュマル……に似ているな」
「そう? グラキリスっていうんだ」
「グラキリス……」
 キリギリスみたいな名前だな、というくらいしか感想の出てこない僕は、それ以上何も言うことができなかった。
「まあ、これはいいとして……電話で話した件なんだけど」
 友人は少し緊張した、高揚を抑えきれないような顔で言った。本題に入るのだろう。今日僕が友人に招かれたのは「ちょっと人には言えないことがあって」という相談があったからだ。これだけ植物に覆われた部屋だ。マンションのオーナーさんと揉めでもしたのだろうか。金が入り用なのか。
「ああ、何があったんだ?」
「まずは、見てくれるか?」
 何を? という僕の質問を無視して、友人はもう一つの部屋へ僕を案内した。ドアを開けた瞬間、むせるような甘い匂いがした。微かに不快な腐臭を含んだ甘い匂い。僕は思わず顔をしかめる。
「なんだこの匂いは」
「いい匂いだろ?」
 いや、くせえよ、と言いたいところをぐっと飲みこむ。友人が、さっきにも増して誇らしげな顔をしているからだ。
「これ、見てくれよ」
 その部屋の真ん中に立派な鉢が置いてあり、真っ赤な花が一つ咲いていた。花の直径は15センチくらいで、中央には熟れた果物の断面みたいな丸い部分があり、その端から円を描くように真っ赤な花びらが広がっている。その花から、強い匂いが発せられているのだ。
「珍しい花だな。ラフレシア? みたいなやつか?」
「ああ、ラフレシアに似ているだろう? でも違うんだ」
「見たことがない」
「そりゃそうだ。俺が作ったんだから」
「作った? 品種改良ってことか?」
「遺伝子操作だよ」
「え?」
 植物に疎い僕でもわかる。植物などの遺伝子操作は、たしか世界的な法律で禁止されているはずで、日本ではその法律が適応されるはずだ。
「ああ、言いたいことはわかってる。知ってる。だめなのはわかってるんだ。だから、人に言えないって言っただろう?」
 友人は自分の作った花を誰にも見せられないことが惜しいと感じたようだった。それで、僕に自慢したかったのだ。
「何がすごいか、見てくれるか?」
 友人は、室内に置いてある小型のクーラーボックスを開けた。生臭い空気が漏れてくる。友人は、スーパーなどで売っているようなマグロの刺身の乗った白いプラスチックトレイを取り出した。
「よく見てな」
 友人は刺身を割りばしで持ち上げる。ぬったりした刺身は箸に持ち上げられ、花のほうへ運ばれる。友人が刺身を花の中央に置いた瞬間、真っ赤な花びらがバサリと勢いよく中央へ丸まり、刺身を抱え込んだ。
「っ!」
 驚きのあまり声が出なかった。刺身を抱え込んだ花は、もぞりもぞりと花びらを動かしながらうねっている。
「捕食したのか……」
「ああ。すごいだろう? 食虫植物とラフレシアの遺伝子を持っているんだ。想定していたより、食虫の遺伝子が強い」
 友人は、かわいい愛玩動物を愛でるような顔をしていた。僕は、うごめきながら刺身を喰らう花をかわいいとは思えなかった。
「まあ、コレクションの自慢をしたかっただけなんだ。誰にも言わないでくれよ」
「あ、ああ。言わないよ」
 風変わりな友人ではあったが、いよいよ道を踏み外すかと肝を冷やす。でも、やってはいけないことだと理解はしているようだから、まだマシか、と自分に言い聞かせるようにして、僕は無理やり納得した。刺身を食べ終えた花が、花びらをゆっくり開き始める。刺身のドリップが花びらについてぬらぬらと光っている。より赤みを増したように見えた中央の丸い部分から、甘い腐臭が放たれた。

 それから数週間して、友人の勤める会社から連絡がきて驚いた。どうやら無断欠勤が続いているらしい。緊急連絡先を僕の携帯電話にしていたそうだ。友人が家族と疎遠なのは知っていたが、連絡先に登録するなら事前に教えておいてほしい。
「じゃ、ちょっと様子を見てきます」
 友人の会社の人にそういって、僕は友人のマンションを訪ねることにした。
「おい、いるか? 入るぞ」
 鍵が開いていたので、僕は友人の部屋にあがる。相変わらず湿度が高く、空気が淀んでいる気がする。植物は二酸化炭素を吸って酸素を出してくれるから空気がきれいになる、と聞いたことがあったが、ありすぎると空気が淀むものだな、と思う。
「おい、いないのか?」
 葉っぱをかきわけ、部屋を進む。微かに甘い腐臭を感じ、ぞわっと足元から鳥肌がたつ。まさか、そんなわけないよな。僕は、言いようのない嫌な予感を腕で払いながら、例の赤い花の部屋へ向かう。ドアを開ける前から、匂いを感じる。不快な匂いのはずなのに、妙にくせになる匂いだと思った。友人の言っていた「いい匂い」という言葉に、納得してしまう自分がいる。恐ろしいものを見るかもしれない、と覚悟を決めてからゆっくりドアを開けると、目が染みるほどの甘い匂いに包まれた。真っ赤な花は1メートルほどの大きさに育っており、中央の丸い部分は霜降りの肉のようにねっとりとしていて生々しい。そのまわりを囲む花びらは、前にも増して艶やかで、目を見張るような赤だった。
 まさか……。花の大きさを見るに、嫌な予感が当たっていないとも言い切れない。
「ああ、来てくれたか」
 友人の声がする。
「おい、無事か!」
 友人は、部屋の端にいた。友人のほうへ駆け寄る。
「お前が無断欠勤するから僕に連絡が来て……」
「ああ、迷惑をかけてすまないな」
「お前……どうした!?」
 友人は、部屋の隅に置かれた椅子に縛られていた。
「誰にやられた! 強盗か!? 怪我はないか?」
 慌てて縄をほどこうとする僕を、友人は静かに制した。
「これは自分でやっているんだ。ほどこうと思えば、ほどける」
 その声は、冷静だった。
「なに?」
「こうしておかないと、我慢できないんだ。耐えられない。自分の理性が、保てない」
 そういって友人は僕の背後を見た。振り返ると、大きくて真っ赤な花が、妖艶なまでに肉々しい艶をともなって、こちらを向いていた。甘くて少し生臭い、生きている匂いを発している。僕は、友人の言っていることを理解し始めていた。欲求がむくむくと胸を膨らます。
「食虫の遺伝子が強い」
 友人は言った。つまり、捕食されるものは、匂いに誘われてしまうということだ。僕は、友人が自分の体を椅子に縛り付けている意味を知る。そして、すでに後悔し始めている。抗えない欲求が、拭えど拭えど溢れてくる。花を見れば見るほど、美しいと感じる。匂いを嗅げば嗅ぐほど、近づきたくなる。一歩、また一歩と僕は花へ近づく。甘い匂いは強く僕を魅了する。抵抗しがたい。頭がくらくらする。思考が働かない。恍惚にも似た歓喜とともに、花の真ん中にぬちゃっと飛び込んだ瞬間、安堵したような友人の笑い声が聞こえた。そうか、餌が足りなくなっていたのか、とわかったと同時に、真っ赤な花びらがばさりと僕を覆いつくした。


【おわり】

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