フモールとクリナーメン
イロニーつまり、階級闘争・歴史主義じゃだめなんですよ。
マルチチュードや、地理的批判を加えた、フモールこそが、社会主義です。
マルクス概念でいうと、クリナーメンがカギです。
じつは、フモールとクリナーメンの内的構造については、研究途上です。
ただ、イロニーもフモールも弁証法なので、両者ともにある対自構造こそが、結局
クリナーメンなんやと思います。
タテの、垂直の発展が、歴史的弁証法。
原子の平行落下は、「各国史」です。
それに、ヨコ向きに橋渡しするのが、クリナーメンつまり、遊牧民の侵入ですよ。
こうして、「世界史」あるいは地理が成立します。
このタテヨコは、「あみだくじ」を思い描いてください。
そして、すでに一国史のなかにも、地理的広がりがあるわけで、それがイロニー弁証法でいう、対自。
これはヨコ向きの力、つまりクリナーメンです。
日本史を借りに一国の歴史とすれば、関東武士の近畿侵入が対自、
蒙古襲来やマッカーサーの進駐軍が、ここでいう、クリナーメン=世界史の成立。
フモールにも、イロニーにも、それこそ笑い・ことばの構造のなかに、ヨコ向きの力、つまりクリナーメン=対自の力はあるはず。
バフチンのポリフォニーが、それではないか?
ならば、マルチチュードは本質はプロレタリアートで、拡大されたプロレタリアートではないか。
フモールとは、拡大されたイロニーであるが、この拡大の方こそが、本質である。
つまり、質的でなく、量的本質こそが、本当の本質や。
蒙古襲来は、日本を一国として見ればクリナーメン、
東アジアを一地域として見れば、対自です。
世界史は、拡大された一国史であり、
世界史の本質を考えればよい。
世界史は地理であり、歴史と地理は入れ子構造ですが、最大枠組みは地理です。
地理つまりマルチチュードつまり構造が全体で、歴史つまりプロレタリアートつまり階級が部分あるいは中心です。
拡大されたプロレタリアートがマルチチュードやとします。
すると、反対にプロレタリアートのなかにも、マルチチュードはある。マルチチュード、つまり個性・多様性が。確かに、プロレタリアートが無個性じゃ困るわけで笑、いきいきしたプロレタリアートの再発見が、プロレタリアート自体の革新でしょう。なんやつまり、それがマルチチュード自覚です。
とすれば、マルチチュードは世界プロレタリアートですね。
実際に、プロレタリアートの理論的表現のなかに、個性・多様性はあるのでしょうか?現実のプロレタリアートには確かに個性はあるが、内的理論構造を教えて下さい!
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