漫画を描くっていうことは…
これまで一応 漫画や小説を描いたことは…ある。
高校時代 当時珍しかった新選組のヲタだったんだけど、楽しめるコンテンツが少なかったので、歴史小説を自分好みに漫画に起したりしていた。
要は2次作。
あと学部の友達をモデルにして ふざけて書いたSFとか。
仲間内で話題になって結構楽しかったんだけど、「自分」は絶対登場させなかった。
オリジナル作品を書かなかった訳じゃない。
書こうとはした。
でもどんなに架空の物語を作っても「自分の心」が投影される。
それが嫌でたまらなかった。
私は児童文学の研究機関にもいた。
先輩とはあまりうまくいかなかったんだけど、ひとつだけ忘れられないやりとりがある。
出版される児童文学を片っ端から読んでいるような先輩に何気なく尋ねた。
「ホントはご自分でも書けちゃうでしょ?」
先輩は首を振って即答した。
「書いたとしても、どう評価され、どう批判されるか もう全部分かっちゃうから自分でなんか書かない。そういう世界に自分を晒すってホントに怖い」
確かに児童文学界は全然フェアリーな世界じゃなかった。
気に入らなければ(だいたい不勉強な人が嫌い)ペンで殴る。
仲間はペンで援護射撃する。
基本的に戦闘だ。
まぁ、どこの世界も同じではあるんだけど、私は自分が嫌われる理由の一部は何となくここで教えてもらった。
多分、今でもあまり変わってない。
私は不勉強なのに生意気で、毒親譲りの歪んだ言葉の持ち主で、共依存体質で、何らかのパーソナリティ障害。
誰でもうまくいくはずのコミュニティでさえ、最初に一番嫌われる。
ここからちょっと不適切な言葉を使うけれど、自分の心の内を率直に表現するためにあえてそのまま使う。
Twitterがサービスを始めたとき、「バカ発見機」と呼ばれてたのを知ってる人はいるだろうか?
Twitterで発信した言葉はものすごく人柄が表れる。
考え方や知識量、人への気遣いの出来不出来。
しゃれの効いたつもりの発信をしても「何が面白いんだ。読者にとっては不快だと気づけ!」
というやりとりが頻発した時期にそう名付けられていた。
今でこそTwitter(現X)は、無法地帯である事に一定の社会的地位を得ているけれど、そんな無法地帯の中で 人々は繋がる人を選んでアカウントを育てている。
私は今でもそんな「バカ発見センサー」に引っかかるようなバカ。
そんなバカなりにオープンアカウントを作り、せめてネットの社会だけでも存在を続ける練習を始めた。
今で3年ぐらい経つ。
そんな自分がまさか オリジナルの漫画を読んでもらわなければ始まらないとまで考えるようになるとは。(お仕事で頂いた縁について 別途記述するかも知れない)
自分の生きてきた経緯を如実に投影したオリジナルの作品。
どんな作家でもそれを読んでもらうということは、その作者にとって、生命維持に近い。
作品だけじゃない。
その仕事。
磨いてきた技。
専門技術。
専門知識。
もちろんそれによって収入に関わるからというのもあるけれど、
誰もが自分の命が誰かの役に立ちますようにと願いをかけて、ネットの世界に投網を投げる部分があるはずなのだ。
「いいね」の喜びが ただ承認欲求ってだけではないのが今なら分かる。
恐れではなく愛なんだ。
決して自分は賢くはない。
いつか失敗もすると思う…
それでも、私が繋がっていきたいのは自分の愛が届く世界。
今はただ、その気持ちを大切にしていきたい。
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