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横田滋さん追悼番組、書き起こし(後編)


~家族会結成、そして~


めぐみさんがいなくなってから、20年が過ぎた。
元気でいれば、32歳になっている。

1997年1月21日。
定年を迎えて家にいた滋さんのもとに、一本の電話が入った。
日本の海岸から次々と姿を消した失踪者について、独自に調査を進めていた国会議員秘書の兵本達吉さんが、娘さんのことですぐに会って話をしたい、というものだった。

「本当にもう、1時間もたたないうちに国会へ、お父さんが見えたですね。
それでわたし、また石坂さんのその文章を読んでもらったんですけれども、もう、顔真っ赤にしてねぇ。
それですぐ…もう涙ぐまれて。これはどうもねぇ…うちのめぐみだって言うわけよね」。

兵本さんの言う「石坂さん」とは、元北朝鮮工作員から日本人拉致の証言を引き出した朝日放送のプロデューサーである。
元工作員の証言の中には、日本で拉致された13歳の少女のことが触れられていた。
バドミントンの練習の帰り、双子の兄弟、など。
めぐみさん思わせる言葉がいくつもあった。

外出先から帰宅してその話を聞いた早紀江さんは、

「もう、ビックリしてね。それでもう『やっぱり生きてたのね!』って言ってね。わたしはもう『良かったー!』と思って。
本当にもう…なんか夢のようでしたね、あの時は『生きてたんだ!』って言うことがね。
本当、夢のようで『良かった良かった!』って。
でも、ちゃんと帰ってこれるのかな?っていうのはね、あの…ありましたでしょ。
北朝鮮っていうのは、そんなトコになんでそんな遠いとこにね、行ってるんだろうって、わからなかったし。
そういうことで、だんだんあの…ミョンジンさん(元工作員:安明進(アン・ミョンジン))とかね。ああいうかたの証言を教えて下さって。
実は「工作員」っていうのがいて、日本人を色々なところで、アベックの人もさらわれて行って『めぐみさんも学校の帰りにさらわれたんだ』って言うこと聞いて…ほんとびっくりしてね。
いろんな…連れてかれ方とかね。かわいそうなね、ことを聞いたりね。
するともう、本当にもう…たまらなかったですけど」。

拉致されためぐみさんは、工作船の真っ暗な船底に40時間以上も閉じ込められて、北朝鮮に連れて行かれた。
「お母さん!お母さん!」
と泣き叫び、壁や扉を引っ掻いたため、北朝鮮に着いたころには爪が剥がれそうになって、指は血だらけだったという。

「わたしだったらもう…本当にもう舌噛み切ってたかもしれない、と思うぐらいの恐怖だと思うんですよ。
もう『海にでもはまっちゃった方がいい』と思ったかもしれないと思うんですけども。よくねぇ…本当によく生きててくれたなぁ…と思うんですよね」。

早紀江さんの思いは、娘を奪われた悲しみから、怒りへと変わっていった。
元工作員の証言。
被害者の少女。
拉致問題への世間の関心が急激に高まった。
国会やマスコミでも少しずつ取り上げられるようになったが、国交のない北朝鮮に対して具体的な手だては何一つない。


横田夫妻の孤独な闘いが始まった。

「わたくしは、横田めぐみの母親でございます。
きょうは、たくさんのかたのご支援を得まして、北朝鮮に拉致をされた子供達を救出するための署名活動を行っております。
 わたくしたちは、本当に20年のあいだ、下校の途中で忽然と消えた娘、めぐみを、どうしていなくなったのかわからないままで参りました。
 本当に色々なことを考え、色々なことに悩み、苦しみ、泣きわめき、もう死にたい思いで探し回っておりましたけれども、何一つ根拠がなく、まるで神隠しのようにいなくなった子供です。
本当に体に鞭打ちながら、このように全国を歩いて救出の呼びかけをして参りました。
 もしみなさま方が今、お手元にいらっしゃる可愛いお子さまが、その場で忽然と消え、そのかたが北朝鮮にいると分かった時は、どうなさるでしょうか。
 親であるならば、自分の命を削っても、何とかして救い出さなければならないとお思いになりませんでしょうか。
 どうか、なにも考えないで素通りをしないでください。みなさまの子どもがもしそうだったら、わたくしは毎日、お手伝いに参ります。
本当に、自分の子供のことと思ってください。このような話を…あと何年…」

当時の外務省は、日朝国交正常化を急ぐあまり、その交渉の妨げになる拉致問題に関して、具体的な対策を全く示さなかった。

(早紀江さん)
「外務省はひどかったですね。今までね。だって『たった10人のことで、日朝交渉の妨げになったらどうするんだ』なんて、局長が言ってるんじゃね。昔のね。あんな人がいるんだからね。大変なことですよこれは。ええ。
自分のお子さんが連れてかれても、そう言うのかなって思いますよ、本当に。ぜったい言わないと思いますよ、そういう時は。そういうところに立たないと、いけないことだなと思いますよね」。

横田夫妻と同じように、そのほかの家族も手がかりのないまま、20年以上も子供達を探し続けていた。
悲嘆に暮れている家族を見て、兵本さんたちは、同じ境遇の人で家族の会を作って団結しようと呼びかけた。
家族は、お互いに背負った悲しみを、分かち合うようになった。
有本恵子さんの母、嘉代子さんについて早紀江さんは、

「有本さんなんかね。ほんとう長い間ね。外務省に何度も行って。それでも足気にされて。
『そんなこと言うと、子供の命が危ないから黙ってなさい』とかね。そういうことは、何だ彼んだ(なんだかんだ)って色んなこと言われて、すごすごとお家に帰られて。そのあいだ、本当にどんな思いをなさるかわからない訳ですね」。

福井県の地村保志さんの母、トシコさんは、息子がいなくなってから脳梗塞で倒れ、病に伏していた。

「地村さんなんかも、お母さん、病気になられて。すぐに倒れられて、脳梗塞になられて。
そしてもう…ぜんぜん動かなくなられて。寝たきりになられたのを、この頃よく寝てらっしゃいますね。地村さん、お帰りになって良かったと(最終的にという意味で)わたし、思うんですけど。
 お父さまが本当にいい方でね。本当にもう一生懸命に看護しながら、下の世話からお食事から、一人でして。そして畑に出て働かれて。そして署名活動も一軒一軒まわって。
 今日『待ってなさい、やっちゃん(保志さん)を助けるために頑張ってくる!』って言ってて、おにぎりをみんな作って。サランラップに包んで。そして奥さまの枕元に置かれるんですけど。かなりこう遠くに置かれるんですよ。
 だから『そんなことしたら届かないじゃないですか!お母さん大変だからもっと近くに寄せてあげてください!』って言うと
『いや寝たきりだから。筋肉は衰えるから。ちょっとでも無理をして、取れるように、取るようにすることで、筋肉がつくんです』って仰った今日も。本当にね、頭が下がりましたよ。かわいそうでね。
 よくここまで本当、考えて愛を持ってね。お母さんに(トシコさんのこと)…奥さまに尽くしていらっしゃるんだなって思いましたし、みんな一人一人のことは、それぞれの家庭で状況が違いますけど、それぞれのかたが、本当みんなその中で、もの凄い地獄の闇の中を、一生懸命生きてらしたんですよね」。

トシコさんは息子、保志さんの帰国を前に、帰らぬ人となった。

政治家や、役人が動かないのなら、世論に訴えよう!
早紀江さんをはじめ家族会は、街頭での署名活動を始めた。

(署名活動にご協力おねがいします。署名活動にご協力おねがいします。…)

6年間活動を共にしてきた「救う会新潟」のメンバー、ホカリケイコさんは 、

「やっぱり本当のね、苦しみと悲しみのどん底をくぐり抜けて、強くなられた方だと思います。本当に。
そしてやっぱり我が子を思う一心ですね。
ご家族のみなさまと、ずっとわたしも6年近く署名活動とかいろんな陳情とか、色々やって参りましたけども。本当に炎天下の中、寒風吹きすさぶ中、もう本当に知らん顔して通り過ぎてくる人達に、みんなにこう、頭を下げて。
『子供達を助けてやってください。ひと目合わせてください』そういうなんて言うのかな。横に一緒に立っていても、こみ上げてくるものがあるような悲痛な訴えでしたね」。

救う会新潟の会長、小島晴則さんも、早紀江さんの姿をこう語る。

「わたしがね、6年間、あのお母さんを見ておりましてね。非常に母親としての愛情が深いといいますかね。こう、一般の家庭にどこにもあるその母親でありながら、しかしまた、あの人しか持ち合わせないそういう愛情っていうのを感じるんですね。
 それが今度、ある段階から、3年ぐらい経ってから、あの方は自分のめぐみって親子という枠からもう少し大きく、国家という立場からあの方が、話を訴えられるんですよ。
 いつもあのかたが、最後に使った言葉というのは『凛とした』という言葉で。『凛としたこの国家』『凛としたもの』がいま、家庭に失われてきたと。わたしはこの、めぐみの拉致問題を==(聞き取り不明)するように感じてるんだと。どうか凛としたその国家をね。してくださいと、いう風にこう…(彼女の発言が)変わってきたんですね」 。

平凡な主婦が、国を相手に闘わなければならなかった。

(早紀江さん)
「どこかの時代で、誰かが、やらなきゃならないんじゃありませんかって小泉(純一郎)さんにもね、手紙書いたんですよ、わたし。もう、いろんな方に手紙もみんな書いてきたんですよ。
 橋本龍太郎さんにも書いたしね。もう…もう本当にもう…河野(洋平)さんにも書きましたし。もう、いろんな人に書いてきたけど、結局、全然動かない。
『誰が助けてくれるんですか?』ってまで書いたんですよ、小泉さんにね。
 でも『誰かが、どの時代かの誰かが、するしかないことじゃないんでしょうか』って…『あなたがそうなってください』って言ってね。
もう本当にもう…わたしたちもね『応援してるし、頑張ってやってください』って手紙書いたんです。
だからそういう…本当にそういうことだと思いません?
誰かが、どこかの時代で誰かが、やらなきゃならない大変な問題なんですよね。これはね」。

めぐみさんが北朝鮮にいることを知らせた兵本達吉さんも、母親の強さを知る一人。

「やっぱり、お母さんの頑張りってすごいんだ。横田さんとこにしたってね。早紀江さんね。有本恵子さんとこにしたって、嘉代子さんね。お母さんの。
昔から「女は弱し、されど母は強し」という言葉があるでしょ。やっぱり自分が産んでるからね。お母さんて、いざとなったらすごく強いんだね。お父さんの方がウロウロしちゃってさ。オタオタってしちゃうんだけども。お母さんは毅然としてる。どこでも」 。


2002年9月16日。
日比谷公会堂ーー

(早紀江さん)
「みなさんこんにちは。わたくしは、横田めぐみの母親でございます。
本当に多くの色々な分野の方々が、それぞれの能力と知恵と才能を発揮してくださって、このような便りないわたくしたちを本当に心から支えてくださって、今日まで頑張ってくることができました。
 わたくし達の子供がすぐ近くの、朝鮮半島の半分のところのどこかに、元気でいるという亡命工作員のお話の中で、わたくし達は、本当に命があるのに、どうしてこのように25年間も助け出すことができないのだろうかと、それが不思議で仕方がないのです。
 みんな父親であり、母親であります。
自分の子供達がこのようなことになったら、本当に海を泳いででも、なんとしてでもその国にでも行って、大きい声で『めぐみー!』『るみ子ー!』と言って、本当に大声で泣き叫びたい思いなのです。
 どうか我が子に会えるように、明日の訪朝の小泉総理の心の中に、父親としての毅然とした思いで、自分の息子だったらどういう風にここで言うだろうかと、その思いを持って調整して行って欲しいと。
良い結果が来るように、本当に心から祈っております。
これからもどうぞよろしくお願いいたします」。

早紀江さん達、家族の思いが、ついに歴史の扉を開けた。


翌、9月17日。史上初の日朝首脳会談。
拉致事件の解決に向けて、日本政府が動き始めた。しかしその結果はーー

(小泉純一郎元総理大臣)
「本日、金正日国防委員長との会談におきまして、拉致問題については、安否を確認することができましたが、帰国を果たせず亡くなられた方々のことを思うと痛恨の極みであります。
ご家族のお気持ちを思うと、言うべき言葉もありません。」
(早紀江さん)
「きょう、思いがけない情報で、本当にもうびっくり致しましたけれども。あの国のことですから。なにか一生懸命に仕事をさせられてるもの(おそらく者)は簡単に出せないということだろうと、わたくしは思っております。
 絶対にこの何もない、いつ死んだかどうかっていうことさえわからないような、そんなことを信じることはできません。
そしてこれまで長い間、本当にこのように放置されてきた、日本の若者たちのことを、どうぞみなさまがたも、これから本当に真心を持って報道してください。
 日本の国のために、このように犠牲になって苦しみ、また亡くなったかもしれない若い者たちの、心の内を思ってください。
 そして、このようなことですけれども、わたし達が一生懸命に支援の会の方々と力を合わせて、闘ってきたこの事が、こうして大きな政治の中の大変な問題であることを、暴露しました。
このことは、本当に日本にとって大事なことでした。
北朝鮮にとっても大事なことです。
そのようなことのために、本当にめぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと、わたしは信じています。
 いずれ人はみな、死んでいきます。本当に濃厚な足跡を残していったのではないかと、わたしはそう思うことで、これからも頑張って参りますので、どうか、本当にみなさまと共に闘っていきたいと思います。
 本当にめぐみのことを愛してくださって、いつもいつも取材してくださって、めぐみちゃんのことをいつも呼び続けてくださったみなさまに、また祈っていてくださったみなさまに、心から感謝をいたします。
まだ生きていることを信じ続けて、闘って参ります。ありがとうございます」。

北朝鮮から提示された拉致被害者の安否情報。

その死亡者リストに、
「 横田 めぐみ 」の、
文字があった。

共に闘ってきた「救う会新潟」の小島会長は、

「あの言葉でね。どれだけ家族のみなさんがね。なんていうか…励まされたっていうのかね。
だから、生きておると伝えられた家族も、亡くなったと言われた家族も、あの場では差がなくてね。
とにかく一致して、解決に向けてね、これからも団結して行きましょうとなってきたんですね。
いま、日本の国家に一番大事なモノが欠けちゃった。
その欠けてる部分を補っているのは、家族の気持ちじゃないかと感じましたね」。

後日、北朝鮮側から提示された不確かな死亡報告書。
そこには、めぐみさんの死因が「うつ病で自殺」と、記されてあった。

(早紀江さん)
「まさか!なにこれ!!っていう感じでもう、びっくり仰天して。そんなバカな!って。こんなことしたんだ!って思いで、一瞬また電気ショック第二弾がきましてですね。ホントになんてことなんだろうって思って。だけども絶対違うって。これは違うって。なんか分からないんですけど、そう思ってね。
 この国はこんなことを書いてくるけど、違うなぁって。絶対いま出せない人なんだなぁっていうような思いが、先にバッてきたものですから。もうすぐにこれは、信じられないなって思いましたけどね。本当にめったに受けたことがないような電気ショックをですね、ガンガンと受けて」。

さらに、20代の頃とされるめぐみさんの写真も公表された。
ふっくらとした頬。もの憂げな瞳。13歳の時、中学校の校門の前で撮った写真と見比べると、どこか面影が残っているようにも見える。

「そんなすぐに『あ、めぐみだ!』って思わなかったの、わたしは。
やっぱりこう、目を見ますからね。あの子は目が特徴があって。ちょっと細くて、ピューって切れ長の細い目してますからね。ああいう苦しい中にあって、向こうに行ったっていうことは、かなりやっぱり、険しい目になってるだろうっていう印象があったんですよ、わたしは。いつもそれ、思ってたんですよ。
 だから、ああいうほんわかとしたものは、もうあんまり残ってなくて。ちょっとこれは違うなぁって言うね。目がちょっと違うんじゃないかな、とかね。
 だから初めは、非常に疑り深くて『あそこの国のやることだから、また色々と、こういう風にして作ってきたのかなぁ』とか、いろんな変な事も思ったりしてましたけど。
だんだん見てると『あぁ、やっぱりこのぐらいになると、こういう風になったのかもしれないなぁ』っていう『彼女なんだろうかなぁ』って思ったりはしてますね、今は」。

悲しみに暮れるまもなく、早紀江さんをさらに驚かせることがあった。

(キム・ヘギョン(ウンギョン)さんが挨拶をしている)
(通訳:『お祖父さんお祖母さん、健康でさえいてくだされば、わたしはもうそれ以上、望むことはございません』。)

めぐみさんと北朝鮮の男性との間に生まれた「キム・ヘギョン」と名乗る、15歳の少女が現れた。

(早紀江さん)
「本当にもう…腰が抜けるほど驚くようなことで。
でも一つ、横田めぐみを探してましたけど、結局、北朝鮮だ(にいる)ってわかっても、本当にそこにいるって…なかなか確証が…つかめないでいますけど。
この人が…孫っていう気も…ヘギョンちゃんが現れて。
この人の血液を採って。その結果が、もう間違いなく99.9999ぐらいまでもう、間違いありませんということが判りましたから。
そしてやっぱり、めぐみから生まれた人が、本当にそこにいたっていうことは、めぐみがやっぱりそこにいたんだっていうことは、ハッキリと判ったことで。それは、本当にもうね『間違いなくそこにいたんだ』ということが判ったことは良かったし。
元気な、あの頃のめぐみと同じぐらいの女の子が、あんなに元気そうで。本当に清純で。なんて言うんですか、純粋な感じで話(を)してますけど『本当に、不思議なことが起きるもんだなぁ』っていうね、わたしも、もう本当にもう…物語を…今でも物語の世界が続いてるような、不思議な感覚なんですよね」。

2002年、早紀江さんにとって、止まっていた時計の針が急速に回り始めた。

「楽しいお正月も、年末も。昔だったらみんなで、必ずめぐみがいましたからね。賑やかな子でしたから。いつも、団らんしてても、楽しかったんですけど。
今は、もう、それからあとの長い間っていうのは、本当の意味で『心が晴れない』『寂しい』。思い出すだけのことが。お正月来たら『あの時はこれだった』と言うことそういうことしかないわけでね。やっぱり寂しい…いつもどこかにあって、本当に『お正月おめでたいな』とか、そういう昔のような気分にはなれない。
 クリスマスが来ても、クリスマスソングなんか聞くと、賛美して喜んで歌いたい歌なんですけどね。ものすごく悲しいんですよ。わたしにとっては。
『ジングルベル』もそうだし『ホワイトクリスマス』もね。あれが鳴り出すと、なんか言えないんですよ、寂しくって」。
「めぐみちゃんも今は死んだと言われてますけど、もし死であってもそれは無駄だったと、わたしは思ってないんで。生きてると思ってますから。
そのことは、きっとまたすごく大きな喜びに、あのキムヘギョンちゃんも含めて、そういうふうな日が迎えられたらいいなって。
わたしはそれが目標でね。救ってあげなきゃと思って。
みなさんも助けていただいて、頑張っていきたいと思ってるんです」 。
「生きている間に、本当に成すべきことだけは、きちっとして。命を終えたいと。この頃はその思いで。その想いが一番大きくて。
一つ一つの時間を間違いのないように、大事にして闘っていきたいと思ってますので。
どうぞ、みなさまがたも、本当に一緒になって、対峙してくださるようにお願いをいたします。
ありがとうございました」。


あの日。
あの朝。
「行ってきます」の言葉を残して、めぐみさんが家を出て行ってから25年。
また、新たな一年が加わろうとしている。

(『浜千鳥』のうた再び)

めぐみさんが好きだったこの歌を聴くと、早紀江さんは「自分が鳥になれたら」と思うことがある。
「もしも翼があったら海の向こうへ飛んで行って、娘を救い出せるのに」
めぐみさんの歌声は、日本海の波間から、今も聞こえている。


「親であるならば、自分の命を削っても、なんとかして救い出さなければならないと、お思いになりませんでしょうか。どうか何も考えないで素通りをしないで下さい。みなさまのお子さまがもしそうだったら、わたくしは毎日、お手伝いに参ります」。


「自分の子供たちがこのようなことになったら、本当に海を泳いででも、なんとしてでもその国に行って、大きい声で『めぐみー!』と言って、本当に大声で泣き叫びたい思いなのです」。


「いずれ人はみな死んでいきます。本当に濃厚な足跡を残していったのではないかと、わたしはそう思うことで、これからも頑張って参ります」。


「ただいま」を聞くまで・・・早紀江さんの闘いは、終わらない。


ニッポン放送報道特別番組『ただいま』を聞くまで…母・横田早紀江の祈り

ナレーション:渡辺城太郎
構成:日高博
技術:「サウンドマン」 佐藤ヒトシ
協力:新潟放送
制作:ニッポン放送報道部 宮崎裕子、畑中秀哉でした。 

==再放送部分ここまで==

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