インドネシア滞在記 vol.4<自国の言語を、改めて考える>
前回の記事の通り、現地で私が出会った人の多くが日本のアニメに触れている。アニメは吹き替え放送ではなく、日本語音声にインドネシア語の字幕で放送されているらしい。それだからか、アニメから知った、日本単語をこちらに伝えてくる。
「Sasageyo!(捧げよ)ってどういう意味?」と聞かれて、『どこでこんな言葉知ったんだ、、』と思いながら、英語で近い単語を説明する。でも、この“捧げる”っていう言葉も、普段かなり感覚的に使っている。自分の手元から離れて、相手の元に渡っている状態だけど、渡る相手や渡す物によっては他の単語を使い分けている。
「与えるとはどう違う?」「寄付?とも違うか…」とか、説明するとなると頭を悩ます場面が結構あった。この「捧げよ!」という単語は、アニメ進撃の巨人で頻発される言葉だから、インドネシアの友人たちの頭に残っていたみたい。
空気を読めるからこそ生まれた言語?
インドネシアの友人から、「日本語で私の名前を書いてほしい」と頼まれた。その子の名前を聞いて、カタカナで書く。そして「漢字でも書いて」と頼まれる。でも、漢字では書けない。じゃあ、なんで自分の名前は漢字で書けるのだろう…?
よく考えると、親が名前に“意味”を込めてつけてくれたから。他の「りな」と言う名前の人とは違う漢字を持っている。ここで漢字には名前の“音”と“意味”が含まれていることに気づく。
一方、ひらがなは、“音”を表している。どう発音するのか、読み方を示すもの。文の前後の感覚を掴まないと、その単語の意味がわからかない。日本人は空気を読むのが上手、って言われるけど、日本語は空気が読むのが上手だからこそ生まれた言葉なのかもしれないと思った。
文で表現する場合、空気を読むとかできないから、そこに漢字があることで、文章を読むのを助けてくれる。時に、カタカナを加えることで、よりわかりやすくなる。
なんか、そこに気付いてから、日本語って柔軟な言語だなと思った。話す分には日本語だけでも、なんとかなった。でも、中国やら他国の人と交流することで、通じないことが出てきて。文字が必要になって、漢字やカタカナを使って表現の幅を広げたのかな?とか、先祖たちの過去を考えてしまったよね。
不完全だったからこそ、いろんな国の表現方法のいいところを採用して、独自の言語になったのかもしれない。
インドネシア語を知って、表現の幅が広がる
現地に英語を学びに行ったはずが、インドネシア語にとても興味を持ってしまった。
ご飯を食べていて、「美味しい!」って感じた時、現地では「Enak!(エナッ)」と言うと伝わる。でも、めちゃめちゃ美味しいとき、「エ〜ンナッ!!」って抑揚をつける。日本で言うと、「う〜〜んま!!」っていう感じと同じ。
言っている言葉は「うまッ」も「エナッ」も同じ。でも、抑揚で自分の程度を表現を広げられる。それを知ってから、会話をするのが本当に楽しくなった。英語を話すときの混乱が、much とか little とか so とか、どれ使っていいか、本当に頭パンクしそうになる。。
今後はもう、英語もインドネシア語も、話す時は自分の感性を抑揚で表現しよう、と思って、もう自分の気持ちを完璧な言葉で表すのはやめよう、と思うことができた。相手にどう伝えるかに専念しようと…!と
滞在していたジャワ島は、イスラムの人たちが多いからか、友人たちはアラビア語を話せるし書ける。インドネシア語自体、アラビア語から来た単語がいくつかあるみたい。そして、過去オランダや日本に統治されていたことから、他国の言葉も混ざっているそう。
これらの語源が日本語かはわからないけど、なんとなく彼らが話しているのを聞いていて、意味がわかっちゃう😛。言葉って、歴史も含んでるんだな、とか思うと、言語を覚えることは、相手の国の背景を知っていくことでもあるんだ。。と。目の前の友人たちの国のことを知れているようで本当に嬉しくなった。
そして教科書をいくら読んでも頭に染み込まない歴史も、言語も、私はこうやって触れていけば吸収していけるんだな……!と、この年にして今更の発見でもあった。
私に合わせた勉強法を教えてくれたり、異なる文化の友人たちとの会話のきっかけを作ってくれた語学学校。ありがとうございました😊😊
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