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”藍色鳥海”をめぐる【由利高原鉄道】


 「あ、夜行バスがセールやってる」


 最初の動機は、こんな些細なものであったと思う。


 新年度も始まりたての4月頭。1日分の青春18きっぷを余らせていた私は、夜行バスと抱き合わせで遠出することに決めた。丸1日を在来線での18きっぷ移動に費やしどこかで一泊、翌日の夜行バスで東京に戻ってくるというのはどうだろうか。そうすれば朝から夜行バスで帰るまでの丸一日を旅先で過ごすことができる。期間は1泊2日。行先はどこか穏やかな空気の流れていそうなローカル線。

 それから色々調べて、秋田県を走る「由利高原鉄道」というローカル線へ訪れることにした。そこを選んだ理由は覚えていない。もう3年も前の話だ。


 あまり詳細を覚えていないけれど、このまま記憶の彼方に忘却してしまうのも惜しい。そう思って、朧気ながら当時の足跡をここに書き記すことにする。


秋田~羽後本荘


 旅行初日は、18きっぷを片手に携えて、ひたすら在来線を乗り継いで北上した。地元を始発で出て約17時間後、秋田駅には終電で到着し、駅直結のネットカフェで夜を明かした。そして翌日、由利高原鉄道が接続する羽後本荘駅へ向かうべく、羽越本線の始発電車に乗り込む。

 駅の乗り換え通路には、各方面へ向かう列車の乗換案内を表示した電光掲示板が取り付けられている。ふと眺めて見ると、そこには「東京行き」の表示が出されていた。ここから岩手県の盛岡駅を経て東京まで向かう秋田新幹線の始発列車だった。

 このまま新幹線に飛び乗ってしまえば、昼食を迎える前には東京に帰れてしまう。昨日あれだけ時間をかけやってきた道のりも、新幹線に乗ってしまえばものの数時間で移動できてしまうのだから凄まじい。


 始発電車の車窓はとても幻想的なものであった。もう4月というのに至る所に雪が残っており、東北の冬はまだ終わっていないことを感じた。朝陽に染められた靄の中、羽越本線の列車が駆け抜けていく。



 秋田駅から1時間ほどの乗車で羽後本荘駅に到着した。今回の旅の目的地となる由利高原鉄道との接続駅である。隣のホームでは、これから乗るべき列車がもう待ち構えていた。

 だが、現在の時刻表を見るに、乗り継ぎには結構時間的余裕があるらしかった。当時の私はこの時間を使って駅前を散策したようだ。




羽後本荘~黒沢


 駅舎をカメラに収める。静かな駅前に、ディーゼルカーのエンジン音が小さく響いていた。澄んだ朝。絶好の旅日和。

 ロータリーの脇には女性が着物姿で何かを踊っている様子の銅像が建てられている。その土台となる石碑には、秋田民謡「本荘追分」の一節が記されていた。


 発車の時間が近づいてきたので、足早に改札を潜り、由利高原鉄道の始発列車に乗り込む。

 列車は近代的な車両のようで、白を基調とした車体に、鮮やかな色が施されているのが印象的だった。ここでは基本的にこのタイプの気動車が運行されているらしい。ちなみに車体の色は車両によって異なっていて、他には赤色、緑色をまとった車両もいた。

 乗り込んで程なくして列車は発車時間を迎え、矢島行きのワンマンカーは豪快なディーゼル音を轟かせながら走り出した。朝日が眩しく差し込む車内には、数名ほど乗客の姿があった。


 最初に降り立ったのは、羽後本荘から5駅目の「曲沢駅」。乗り鉄的には終点まで乗り通すべきところだが、敢えての途中下車。だが、この駅に対し何らかの目的をもって下車したというわけでもない。これには訳がある。

 今回の旅の目的の一つに、なるべく多くの駅を訪れるというものがある。これは映像制作のための素材収集が念頭にあるためだ。

 ローカル線の本数は決して多くない。列車に乗り、次の駅で降りて撮影し、また次の列車で隣駅へ、などと続けていると、終点に着く前に終電を迎えてしまう。もっとも今回に至っては、終電前に秋田駅へ戻り、帰りの夜行バスに乗車しなければならい。

 より効率的に多くの駅を訪れるためには、上下方向の列車を駆使し、ジグザグを描くように移動する必要がある。このため、最初に訪れる駅が何ら変哲もない途中駅であることは、このような鉄道旅ではよくあることなのだ。乗り鉄なのか撮り鉄なのか、なんとも要領を得ない動きを見せてしまう点については、どうかご容赦願いたい。


 ここは冒頭で記した「どこか穏やかな空気の流れていそうなローカル線」を感じるには十分な駅であった。だだっ広い田園地帯の中に、駅舎とホームがぽつんと佇む、そんなところだった。「まがりさわ」の名前とは対に、一直線に伸びる線路が印象的である。

 この地域は豪雪地帯だという。冬になれば、一面に雪の絨毯が広がる中、あのディーゼルカーがガタゴトと足音を響かせならがやってくる光景が見れるのだろうか。そんな撮り鉄の性癖をくすぐる風景を拝むには少し遅すぎてしまったなと、なんだか惜しい気持ちになる。


 駅のホームからは、遠くに「鳥海山」を望むことが出来る。

 鳥海山は、秋田県と山形県の県境に位置する山で、出羽富士とも呼ばれる。いうなればこの地域のシンボル的な山と言ってもいいかもしれない。雪が解け切った周辺の山々とは対照的に、鳥海山だけがその姿を真っ白に染めていた。


 こうした"地域のシンボル的なもの"が、色んなところから眺められるのがとても好きだ。「あぁ、いま私は旅してるんだ」と旅情に浸ることの出来る瞬間のひとつである。

 山梨や静岡から富士山を拝む時、富山の市街地から立山連峰を遠目に見やるとき、東京のビル街の隙間に東京タワーやスカイツリーを見つけた時など枚挙に暇がないが、こういうときこそ「私はここにいるんだ」という実感を得られる。鳥海山もその一つと言えよう。


 列車に乗り、続いて「鮎川駅」にやってきた。曲沢駅の2つ隣駅である。この駅もローカル線情緒のあふれる長閑な駅であった。


 駅舎もなかなか立派な造りをしていた。瓦屋根をしつらえた渋い印象の家屋だが、その雰囲気からして、いうほど古いものではないのかもしれない。

 待合室もゆとりがあり、失礼ながら、普段の利用者数に対して広すぎではないかと思ったくらいだった。待合室にドアがついているなど、しっかりと密閉空間を構成できるようになっているのは、冬の間も寒い思いをせずに列車を待てるようにと言った、この土地ならではの理由もあるのだろう。


 鮎川駅から矢島行きに乗り、隣の「黒沢駅」へやってきた。ここで出会った車両は、冒頭で乗った白い列車より一世代古そうだ。YR-2001系というらしい。テープに吹き込んだような音質の、年季のある車内アナウンスが印象的であった。


 この駅も、先に立ち寄った駅に負けず劣らず、視界の広い駅である。目の前に線路が伸び、遠くに低い山並みがあり、周辺には畑が広がる……。由利高原鉄道には、このような広々とした駅風景が多いように思う。何にも視界を遮られない、一面を田園地帯が占めるこの光景は、見ていて癒される思いがする。


 黒沢駅の駅舎は、どことなく鮎川駅のそれに似ているような気がした。瓦屋根であることや、正面の木材の配し方などに共通点が見られる。恐らくバリアフリー化か何か工事をした際に、一緒に駅舎を新しくしたのかもしれない。


黒沢~羽後本荘


 ほどなくして羽後本荘行きの列車がやってきた。今度はこれに乗り、3駅隣にある「薬師堂駅」を目指す。

 列車に乗ったり降りたり、一体何を繰り返しているのだと言われるかもしれないが、本数の少ないローカル線では、一本一本の列車が貴重な移動手段となる。決して乗り遅れることなく、事前に練った計画通りに事を運ばせることが、旅を成し遂げるための重要な鍵となるのだ。



 黒沢駅から約12分で「薬師堂駅」に到着。羽後本荘行きの列車を見送った。先ほどまで訪れていた駅とは対照的に、駅前の通りには車の往来も多く、周辺には建物もたくさん建っていた。隣はもう由利本荘市の中心駅を成す羽後本荘駅であり、どちらかといえば市街地にほど近い立地なのかもしれない。


 ホームでは木彫りの猛禽類・・・だろうか、何らかの彫刻に出迎えられた。

 駅の待合室には、由利高原鉄道を写した写真が何枚か飾られていた。有志によって撮影されたものを展示しているのだろうか。雪原の中を、色鮮やかな新型気動車が走る風景が切り取られている。この車両の色は雪景色によく映えるなと思った。いつか冬に来て撮り鉄をしたいと突き動かされるような思いがした。


 さて、今いる薬師堂駅から、隣の「子吉駅」までは歩き旅となる。駅間は約2~3kmあり、歩きで30分ほどかかる。この道中で行き違う列車を、どこかしらで撮影する計画を立てていた。

 薬師堂から国道108号線を南下。歩道の設けられた2車線道路は、歩行者にも優しい。赤白のポールが立っていて雪国らしい風景だ。鳥海山ろく線の線路は国道の脇を並走している。今のところ列車が接近する気配はない。


  国道は左へカーブし、Aコープを過ぎたあたりから一面を田園風景に囲まれる。その脇を、まるで壁のようにして張り付いている鉄骨状の構造物があった。これは一体なんだろうか。

 推察するに、これは暴風雪を和らげるための壁なのではないか。実は構造物の下には鉄板のようなものが何枚も重なっているのだが、厳冬期にこれを展開することで、吹雪対策としているのだろう。


 そろそろ列車の通過時刻が近い。辺りを見回し、脇道にそれながら、撮影地を物色する。

 視線の先には日本海東北道、その奥には鳥海山が聳えている。この山は本当に沿線の様々なところから拝むことが出来る。雪深い山頂の様子から、東北の冬の厳しさを感じさせる、白化粧をまとった出羽富士の存在感は大きい。


 ふと耳を澄ませてみると、遠くから列車が走る音がした。カンカンと踏切もなっている。もう鳥海山ろく線の車両が来たかと思ったが、こちらの踏切はなっていない。しばらく音が聞こえるほうを伺っていると、JR羽越線の車両が走っているのが遠目に見えた。

 そうこうしているうちに、こちらも列車の接近時間を迎えたらしい。また遠くから踏切の音が聞こえだした。結局めぼしい撮影地を見つけられないまま、とりあえず目に付いた踏切の脇からカメラを構えた。


 やって来たのは青い車両だった。白地の車体に、青系のドット模様が施されている。他のローカル線にはない洗練されたデザインが良いなと思いながら、過ぎ去る列車をファインダー越しに見送った。

 被写体が視界から消え、走行音も聞こえなくなったところで、再び子吉に向けて歩き出す。



 ほどなくして子吉駅に到着。隣の薬師堂と同じく、国道108号線に面している。通り沿いに、羽後交通の「玉の池」バス停が立っていた。周囲は相変わらず田畑に囲まれているが、少し向こうには家々が立ち並んでいる。どうやら国道とは別の道に沿って、集落が形成されているらしい。


 子吉駅。どの駅もきれいな待合室が整備されていて安心する。ただこの駅は他所のそれとはタイプが異なるらしく、列車の待合室部分は少し手狭で、家屋の大部分は「玉の池簡易郵便局」という郵便局に占められている。

 ただこの局はすでに役目を終えた様子で、見ての通り、郵便局の看板も隠されている状態であった。



 羽後本荘行きの列車が入線した。先ほど撮影した青色の車両であった。

 これはあとがきとなるが、私は先ほど、この車両を矢島方面の列車として撮影し、見送った。つまりこの列車は踏切で撮影されてから終点の矢島まで行き、折り返してやって来たことになる。私にはその間、この子吉で数時間レベルの結構な待ちが発生していたことになるのだが、一体どうやって過ごしていたのだろう。記憶は定かではない。。


 乗車した車両にはなんと、アテンダントが乗務していた。

 これはいわゆる「まごころ列車」というやつだ。1日に1往復運行され、車内では観光案内やグッズ販売などが行われる。このアテンダントの衣装は「おばこ」にちなんだものだ。車内でしおりなどを頂いた。

 おばこは若い女性を指すこの地域の方言らしい。箱入り娘とか、そういったニュアンスを思わせる語感をしている。ちなみに由利高原鉄道の車内アナウンスでも「おばこ号をご利用いただき……」といった放送が流れていて、このローカル線の愛称のような役割を果たしていた。


 車内には明るい日差しが差し込む。今日は天気に恵まれた良い日だ。

 テーブルに反射しているのは窓に施された装飾で、秋田犬をモチーフにしていると思われる。秋田といえば秋田犬、そう「忠犬ハチ公」である。もっとも、忠犬ハチ公ゆかりの地は、ここ由利本荘市から北に約100km離れた大館市にあるのだが。

 まごころ列車に揺られながら、先ほど訪れた薬師堂を過ぎ、私は再び羽後本荘駅へと舞い戻った。


 始発で来た時よりずいぶん明るい印象を受ける。太陽が昇りきったからだろう。また駅の人影も少しながら増えたように思った。


 羽後本荘駅では1~2時間程度の滞在時間を確保した。羽後本荘駅を11時31分に出発する特急「いなほ1号」を、駅近くの跨線橋から撮影しようと目論んでの事であった。また同じような時間帯に、おばこ号もやってくるらしい。

 目的の跨線橋は、駅から南に15分ほど歩いたところにあった。国道107号から、JR羽越線の複線と、鳥海山ろく線の単線を見下ろすことが出来る。予定通りの時間で、緑色のおばこ号と、秋田行きの特急いなほ1号を撮影することが出来た。


 撮影を済ませた後は、再び羽後本荘駅へ。

 ちょうどこの辺りで正午を迎えていたはずで、私はどこかで昼食を摂った記憶があるのだが、何を食べたか一切覚えていない。もしかすると何も食べていなかったのかもしれない。

 腹を満たせたかどうかは定かでないが、とりあえず撮影旅の後半戦がスタートした。JR線の改札口を抜けて、由利高原鉄道のホームへと足を運ぶ。


羽後本荘~矢島


 

 次に乗るおばこ号は、先ほど跨線橋から見送った緑の車両だった。この列車で終点の矢島駅まで向かう。




 早朝に訪れた駅たちを過ぎ、本日初探訪となる区間へ進んでいく。列車は道中、何度かに渡り川を越えていく。これは「子吉川」といい、鳥海山に源を発する一級河川である。

 『川は交通の母だ』とは誰の言葉だったか忘れたが、鳥海山ろく線も例にもれず、子吉川に沿うようにして延びている。



 ものの50分ほどの乗車で、終着の「矢島駅」に到着した。ローカル線ながら、終着駅までの所要時間はそれほどでもない。詳細は後述するが、この乗車時間の短さは、いわゆる第三セクター鉄道特有のものなのだと思う。



 列車を降り、駅でカメラを構えながら徘徊していると、近くにいた係員さんに「君朝から写真撮ってたでしょ! いいの撮れた?」といった具合に声をかけられた。やはり早朝から沿線でうろうろしていると、ある程度認知されてたりするのだろうか。現地で働かれてる方に撮れ高を気にかけていただけるのは、趣味人として純粋にうれしい。


 その後、ホームで何枚か写真を撮りつつ、さて改札を出ようとしたその時、あらぬ事態に見舞われた。


 改札口のドアが開かない。


 改札口につながるドアを押しても引いても開かないのである。これはもしかすると、鍵ごと締め切られてしまったのかもしれない。私は同様の事例をすでに経験していた。

 これは地方のローカル線にはよくあることなのだが、列車のいない時間帯は駅の改札口を締め切ってしまうことがある。列車の発着する時間以外は、乗客がホームに出入りできなくなるという仕組みだ。わざわざ列車のない時間に改札口に駅員さんを常駐させる必要性もないので、業務の効率上、全くもって当然のオペレーションである。

 ただこれは、列車を降りた後、長々と風景やら看板やらを撮影するためホームに長居するようなオタクとの相性が良くない。オタクはホームの端の方だったり、人目に付きにくいところにも行ったりしていることがあるので、駅員さんがそれに気づかないまま改札を締め切ってしまうというのもあり得なくない。

 昔、JR八戸線を訪れた際に同様の場面に出くわした。無理やりドアを叩くなどして駅員さんを呼びつけ、ドアを開けさせるのも申し訳ないと感じた私は、そのまま次の列車の発車時間まで、ホームで暇を持て余していたことがある。


 ・・・もしや今回もそうなるのではないか。この後、本当は隣駅まで歩く計画だったのだが、これでは計画変更せざるを得ない、どうしようか。そう思いめぐらせていたのだが、事はあっけなく解決した。

 (あっ、開いた!)

 ドアは引き戸であった。


矢島~川辺


 矢島駅の駅舎は、他の駅よりも一回り大きい。由利高原鉄道の本社などが併設されている。

 一昔前までは、「国鉄矢島線」時代の面影を残す駅舎が残っていたらしいのだが、いつしか駅舎も代替わりを経て、今のものになったという。

 ・・・そう、この鉄道は元々、国鉄矢島線として営業していた。1980年代に廃止へと話が進んだものの、紆余曲折を経て1985年に第三セクター化、由利高原鉄道・鳥海山ろく線として今に至っている。実は国鉄矢島線の前身となる鉄道もあったのだが、この話は後述。


 鳥海山から注ぐ一級河川・子吉川に沿ってきた鳥海山ろく線は、ここ矢島駅で終点を迎える。

 川の方はまだ上流域まで遡上でき、先には鳥海山を望む展望台や、それこそ高原地帯らしい風景が広がっているらしい。ただそれらのエリアを楽しむには、車が必要不可欠であった。無免許の私には到底手の出せない観光地である。

 この先に広がっているであろう雄大な自然風景に袖を引かれる思いを抱きつつ、私は私の成すべき旅程を遂行するべく、次の目的地へと向かう。


 矢島駅を訪れた後の計画は、今までと同じように、列車や徒歩を駆使して、鳥海山ろく線の各駅を巡るというものだ。次の目的は、矢島駅の隣駅となる「川辺駅」まで徒歩50分の道のりを歩くことだった。

 ここまで旅記を読んでいて、「列車を待って乗ればすぐじゃん」と思う方もいるかもしれないが、1日の本数が限られるローカル線では、列車を待つ間に駅間を歩いた方が効率的な場面がある。歩いて次の駅まで先回りすれば、入線する列車を撮影できるうえ、その列車でさらに先の駅まで移動できるというメリットがあるのだ。ここまで展開してきた旅程にも、そういう駅巡りオタク特有の事情が絡んでいる。それはこれからの動きも同じである。


 道を歩いていると、路肩を流れる水の勢いが良いことに気づかされる。側溝にしては水量が多い気がするが、春先の雪解け水を多分に含んでいるからかもしれない。この流れの音が心地よく、一人歩きの贅沢なBGMとなった。


 にしても、本当に見晴らしがよく、良さげに撮影できそうなスポットがたくさんある。・・・いかんせん肝心の列車が、すぐには来ないのだが。


 ほどなくして子吉川の左岸に山が迫り、周囲はだだっ広い田園風景から一変、両側を木々に囲まれた風景に様変わりする。

 山道ともいうべき道路を進んだ先で、川沿いを辿って来た道路と合流する。そこを進んでいくと、目の前には立派なスノーシェッドが見えてきた。


 当時、この辺りは閑散とした一本道な印象だったのだが、ストリートビューを見てみると、道路の真ん中にはきれいなセンターラインが引かれ、往来する車もめちゃくちゃ写っていてびっくりした。自分が歩いたときはそんな交通量ではなかったはずだが・・・。


 スノーシェッドをはじめとする道路構造物も、車の車窓越しで見るのと生身で足を踏み入れてみるのとでは感じるものが違うなと思う。一人で歩いてくると、なんだか探検しているような気になって、自然とわくわくした気分になる。


 スノーシェッドを抜けた先で、来た道を振り返る。そこには子吉川が眼下を流れている。

 鳥海山やその周辺から湧き出る豊富な雪解け水は、やがて川を成し日本海へと注がれていく。川は水田を潤し、辺り一帯では稲作や酒造りが盛んになったという。


 川の左岸に迫っていた山の斜面に沿って、道が大きく左カーブを描く。その前方には再び平野が広がっていた。この先で合流するのは国道108号である。この国道もまた、子吉川や由利高原鉄道とその道程を共にしている。国道の路肩には立派なフェンスが立っていたが、これも吹雪対策のものだろう。


 田園地帯の中を、赤い列車が大きくS字を描くようにして下って来た。矢島から羽後本荘へ向かう列車だ。

 雪解け水の流れる音に、気動車のディーゼル音が混じる。水田の回りには少しずつ緑が芽吹き、心地よい風と日差しの中に、春の気配を感じた。


 しばらくして、列車の足音は山間の中に消えていった。周囲は再び、せせらぎ、小鳥のさえずり、草木が風に揺れる音だけの静かな空間に戻る。


 列車が過ぎ去った後も、心地よさに我を忘れ、少しばかりその場に立ち尽くしていた。



 山紫水明。山水の美しさを表した四字熟語であるが、ここはまさにそんな言葉の似合う、清らかな風景の広がる土地であるように思う。


 川辺駅に到着。国鉄時代は羽後川辺駅と名乗っていた。

 深緑色の三角屋根と、その手前に建つ背の高い木が印象的だ。駅の待合室や、自転車置き場などが一つ屋根の下に収まっている。


 川辺駅は待合室の構造が独特で、中には中二階的な空間が設けられていた。


 階段を上がると、ベンチがあった。しかしこれ以外にはとりわけ何か特別なものが配されているわけでもない。なぜこのような設計を採用したのだろう。


 ホームに降り立ってみる。今まで訪れた駅と同様に、こちらも開放的な風景が広がっていた。駅前の水田にカラスが群がっている。



 さて、ここまで1駅分歩いたし、次は列車に乗って移動・・・と行きたいところだが、そうはいかない。私の手に携えてある旅程表が言うには、隣の「吉沢駅」まで歩けとある。ここで次の列車を待つより、歩いて先回りした方が早いのだ。

 再び沿線散歩を楽しむことにしよう。吉沢までの距離は約3km36分。そんな大したものではない。


川辺~吉沢


 鳥海山ろく線に平行する国道108号線には、羽後交通の路線バスが走っている。沿線を歩いていると、立派な待合室が併設されたバス停をよく見かける。豪雪地帯特有の事情があるためだろう。


 しばらく国道に沿って歩いていると、時刻表に無いタイミングで列車がやってきた。回送か試運転の類だろう。慌ててカメラを構えたので、なんともその場しのぎ的な撮影となってしまった。



 大きなS字を描きながら、列車は矢島方面へと去っていった。この画角で撮影すると、列車がそれなりに急な坂道を登っている様子が見てとれる。



 国道と線路、そして子吉川が迫るところに「木在橋」という橋が架かっている。橋と国道の交差点に踏切があり、その奥に熊野神社が鎮座している。

 この辺りで列車と交えて撮影すると面白そうだと思ったのだが、あいにく列車が来る時間ではなかった。もう少し早めに歩いていれば、先ほどの回送列車を捉えられていたかもしれない。


 国道から右手にそれる脇道へ入ると、より川や線路に近いところを歩くことが出来た。なるべく線路に寄せて歩きたくなるのが、オタクの性というものなのだろうか。

 この辺りで、同業者の方がカメラを構えていた。何か軽く世間話を交わしたと思うのだが、何を話したかは覚えていない。



 ここで子吉川と交えて列車を撮影するのも楽しいだろう。ぜひ列車を待って撮影したいところだが、あいにく旅程に差し障ってしまう。またいつか来た時、ここで撮ろう。そう思いながら、大人しく歩き続けることにした。



 小道は線路沿いを離れ、ほどなくして国道に再合流する。国道は河岸段丘の上を通っていたようで、知らぬ間に線路との高低差が出来ており、国道手前で急な坂を上ることになった。


 国道と合流した先に、「岩坂」というバス停があった。こちらも他と同様、立派な待合室が設置されている。


 少し時刻表を覗いてみよう。

 タイミングによっては2~3時間ほど開いてしまうところもあるようだが、1日を通してはそれなりに便数があるようだ。このバスを活用すれば、より効率的に撮影して回れたのかもしれない。


 国道は左へ曲がりながら、川にせり出した小さな尾根を越える。この辺りで由利本荘市の矢島地区から、吉沢地区に入る。

 これはもうどの地域を訪ねてもそうなのだが、やはり地方は車社会ゆえ、基本的に道路において歩行者の人権がない。それでいて車の往来は多く、歩いているとドライバーに申し訳ない気持ちになるのが、徒歩旅あるあるの一つである。


 尾根を抜けた先に見えるのが吉沢駅だ。

 計画としてはこの辺りから俯瞰で撮影をする手はずだったが、場所や構図を決めかねているうちに列車が来てしまった。本当はもう少し良さげに撮れそうだったのだが、タイミングを合わせることが出来なかった。


 吉沢地区の集落を目指し、国道は緩やかに下っていく。

 道自体は高規格なのだが、やはり歩行者に人権がない。車道即ガードレールである。ほんとにここ歩いていいのか心配になるのだが、もしダメなら車持ってない人はどうやって移動するのかということになるので、恐らく歩いても道交法的な問題はないと思う。道行くドライバーには悪いけど。




 吉沢地区を過ぎたところで農道に入り、少し歩いたところで駅に着く。あるのは小さな駅舎と直線的なホームのみ。これは駅舎というか、もはや小屋。


 相変わらずホームから望む風景が良い。これだけでも十分絵になる。冬になれば、一面を取り囲む田畑も白一色の絨毯となるのだろう。降りしきる雪を照らしながらおばこ号が入線してくる。そんな風景も見てみたい。



 この駅に限った話ではないが、待合室の中には除雪に使うと思われるシャベルなどが置いてあり、雪国らしさを感じる。誰が雪かきをしているのかはわからないが。




 駅で矢島行きの列車を見送る。私が向かうべき向きとは逆方向に行く列車なので乗車はしない。

 この後は、隣駅の「西滝沢駅」を目指して再び沿線を歩く。1,8km、20分の道のりである。


吉沢~西滝沢



 ここまでで延べ3駅分の駅間を歩いたことになるが、体力的なしんどさはあまり感じていなかったと記憶している。

 ローカル線は駅間が離れていることが多く、そのような場所を歩きで散策する場合、隣駅まで1時間かかるなどといったことは珍しくない。3駅も歩いたとなれば結構な疲労がたまるものなのだが、今回やってきたこの鳥海山ろく線は、ローカル線ながら駅間がそれほど長くないのだ。なので結構な駅数を歩き通したつもりでもあまり疲れない。これは第三セクター鉄道の特色でもあったりする。

 由利高原鉄道でITアドバイザーを経験し、後に若桜鉄道の公募社長となった山田和昭氏の書籍にはこう記してある。

『国鉄改革で生まれた第3セクターは、その要件の一つに「起点から終点までの営業キロが30km以下」というのがあり、短い路線が多い』

山田和昭 (2016)『希望のレール 若桜鉄道の「地域活性化装置」への挑戦』祥伝社

 由利高原鉄道も例外ではなく、その営業キロは23kmと、片道5時間もあれば歩き切れてしまう程度の距離である。だから何駅も歩いたところで、その長さはあまり大した距離にならないことが多い。

 ローカル線の沿線を歩きながら旅をしたいと思ったとき、初めはこのような距離の短い第三セクター鉄道から訪れてみるのも良いかもしれない。


 沿線を歩いていると、「あ~この構図で列車が撮影出来たらな」と思わされる風景に多く出会う。特にこの路線は周囲が開けていて、遠くからでも列車が見れるため、ことさらにそういった風景が多いようにも思う。

 来ないとわかっていながら、偶然何か走ってきたりしないかなと期待してしまう感情が、なんだかもどかしい。


 子吉川を渡り国道沿いを歩いていると、右手に滝沢駅が見えてくる。立派な瓦屋根の駅舎と、その前に木がそびえたつ風景は、これまでに訪れた鮎川、黒沢、薬師堂に通づるものがある。というか駅舎の設計ほぼ一緒だろこれ。



 ホームに差し掛かる線路が妙な曲線を描いている。こういうのを発見すると「昔は列車の行き違い設備でもあったのだろうか」などと考えてしまう。ただの単線であれば、わざわざこうして曲線をつくる必要がないからだ。


 ただそういった駅には大概、線路を挟んだ向こう側にも何かしらホームがあった跡といった遺構が残っているものだが、ここではそういったものを見つけることはできなかった。

 だが後々になって調べてみると、この鉄道の終着駅がここ西滝沢駅だった時代があるとのことだった。この曲線も、その頃の名残なのだろう。


西滝沢~前郷


 時間が立つのは早いもので、もう太陽も傾きかけてきた。旅も終盤に差し掛かってきたのだと、焦らされる思いがした。

 西滝沢から列車に乗って、2つ隣の「前郷駅」まで移動する。踏切の音に交じりながら、赤色の列車が車体を揺らしながらゆっくり入って来た。


 前郷駅は鳥海山ろく線の中間に位置する駅で、ここで上下線の列車がすれ違いをする。その際に「タブレット交換」という、今では珍しくなった鉄道風景を垣間見ることが出来る。大きな輪っかのついたアイテムを列車同士で受け渡すアレである。もっとも、その大きな輪っか自体はただの入れ物であり、実際の「タブレット」は別のアイテムの事を指すのは有名な話だが。


 両方向から列車が到着する。するとホームに立っている駅員が片方の列車からタブレットを受け取り、もう片方の列車に渡しにいく。タブレットを持った列車だけがこの先の単線区間に入ることができ、それによって列車同士の衝突等を回避できるというシステムになっている。

タブレット交換|鉄道の魅力|由利高原鉄道

 タブレットとスタフの交換を終え、駅員が小走りで元の立ち位置に戻ると、少し時間をおいて、それぞれの列車が出発していく。


 今でこそ中間駅として列車交換が行われている駅となっているが、この地に鉄道が通った最初期はこの駅が終着であった。

 しかし初期の構想では、この先の進路を東に取り、東由利の老方地区を経て、本荘と横手が鉄路で結ばれるという計画があったという。言うなれば、現在の由利高原鉄道の羽後本荘~前郷間はもともと、本荘~横手を結ぶ鉄道として建設されたのだ。当時は「横荘鉄道西線」と呼ばれていた。

 横手側からも鉄路が伸び、横手~老方間が「羽後交通横荘線」として開通、最終的には2つの路線が接続し、横荘線として結ばれる予定であったが、様々な事情が重なり、ついに両線がつながることはなかった。

 その後、本荘~前郷間は国鉄矢島線として国に譲渡され、横手~老方間は廃止されるに至る。実際に開通した横手側には当時の面影を残す廃線跡が残っているらしいのだが、本荘側は構想段階で計画がとん挫したため、前郷から先に遺構は存在していないと思われる。

 いつかは横手の廃線跡を訪れ、叶わなかった秋田横断鉄道計画に思いを馳せてみるのも面白いかもしれない。


 >おばこ号が来る!!<


 前郷は有人駅であるため、駅舎内も何かと充実しているようであった。先述した「タブレット閉塞」にまつわる機械も、待合室の窓越しに垣間見れるというが、当時の私はそういった設備にあまり関心がなかったのか、完全にスルーしてしまっていた。


前郷~久保田



 前郷からは隣の「久保田駅」まで30分ほどの歩き旅となる。西滝沢と前郷の間にある駅で、先ほど列車で素通りしていた。久保田駅の到着をもって、由利高原鉄道の全駅訪問が達成される。

 空はいつのまにか暮れ始め、先ほどまでの青々とした風景から、どこか夕焼け色に染まりつつある。田園地帯の中、久保田に向けて歩みを進めた。


 私は鳥海山ろく線の中で、この前郷~久保田間の風景が一番好きだ。遠くに鳥海山を見据えながら、開けた田園地帯の中を走りゆく列車を思い浮かべる。どう切り取っても写真映えしそうな、そんな場所だと思う。

 線路は道路と並走していて遮蔽物も少なく、撮影するには申し分のない場所だ。ここでこんな感じに列車を撮影出来たら・・・、などと考えながらシャッターを切る。と同時に、時間の関係上、今日ここで列車を撮影できるはずがないことも私は知っていた。次来た時は必ずこの辺りで美しい写真を撮りたい。そう思いながら足を進める。




 久保田駅に到着。板状のホームの脇には、小屋のような駅舎が建っていた。「久保田駅」と書かれた表示板があるので、駅で間違いない。この看板がなければ、何かの物置と勘違いしてしまいそうな出で立ちである。


 待合室の中には時刻表やポスター、表彰状などが所狭しと貼られていた。小さな小屋が併設された駅といえば吉沢も同じだったが、この駅には窓もなく、その狭さがより一層つよく感じられるような気がした。小学生の頃によく作っていた秘密基地のような趣がある。




 羽後本荘行きの列車を1本見送り、その後の矢島行きに乗車する。この列車で矢島まで乗車し、折り返して羽後本荘まで乗り通せば、今日の旅は終わりだ。


久保田~矢島~羽後本荘


 低い稜線の奥に鳥海山が聳えている。日も傾いてきた。早朝から歩き回ってきたこの土地との別れも近い。


 再び矢島駅に降り立つ。2度もこの駅を訪れた理由は様々あるが、動機の一つは日本酒の調達にあった。駅にほど近い酒造で、この土地の日本酒が買えるらしい。鳥海山からの伏流水で造られた日本酒である、絶対に美味しい。

 目的の酒造で日本酒を手に入れ、折り返しの列車で矢島駅を後にした。


矢島~羽後本荘




 早朝から一日かけて訪れてきた駅が小さく去っていく。走馬灯を見ているようだった。日はみるみるうちに沈み、羽後本荘に着いた頃には完全に夜となっていた。この後は羽越線の列車に乗り秋田へと向かい、東京行きの夜行バスで帰るだけとなる。


 朝から散策し、いいローカル線の風情を存分に味わえたように思う。そして同時にまだ撮り足りない風景が数多く残っていることも思い知らされた。またいつか来なければ。今度は一面の銀世界の中へ身を投じてみたい。そう心に誓いながら、名残を惜しみつつ、秋田行きの列車に乗り込んだ。

 こうして、やや突発的に思い立った由利高原鉄道の撮影旅が、幕を閉じた。



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*この記事は、以前はてなブログで公開していたものに、修正を加えて再掲載したものになります。


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