くもの隙間

肩が痛い。眼を開け、薄らと白んできた空を見上げる。どうやら疲れ切って寝てしまったらしい。掛られた上等な毛布から抜け、レモンティを手に取る。冷えている。

「いってくる」と防寒だけした身で声をかける。「少し待ってて」

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私も決して例外ではなく忙しない12月だ。それでも、振り返りという365日程度前を思い出すことは有効に思えた。

ひとことで言えば「やめるべきことをやめることができた」と表現する。四半世紀ほどの人生で、好きでも嫌いでもない事柄は増えたが、それ以上に無関心なことを知ることが多かった。やるべきことの優先度を明確につけて、悪影響なものは徹底的に排除した。他方、その判断基準の策定に四苦八苦したとも言える。あるときは、必要なものを切り捨ててしまったり、不要なものを抱いてしまったりした。

言ってしまえば、自分にとってやるべきことはなんなのか釈然とせず、解釈できず、理解もされずに、曖昧なまま、キッパリとした断行した愚行だった。いまは多少マシになった。というより、素直に判断している。

それぞれのカテゴリで簡単に振り返ってみよう。

翻ってみれば、ここ1年は所属は変わらず、肩書ばかりが変わった。いまは、ある一定の責任を帯びながら、意思決定をする仕事をしている。その責任を帯びる人数が多少増えた程度だ。そのぐらい仕事は安定している。さまざまな経験の上に立ち、知識として昇華し、更なる経験を得ている。素晴らしい、愛すべきサイクルだ。

次に私的なことだが、こちらも良くも悪くも安定している。変化がないと言っていい。人と出会い、相応に人と別れてきた。無関心な人物と出会い、付きまとわれることもあった。その場合には、キッパリとした態度を取ることができた。愛すべきことを愛すべきなんだ。個別具体では、家族とは円満な関係を維持しているし、父親との確執も解消しつつある。職場を含めたその他の人間関係では、なんらかに一喜一憂したり、ぬか喜んだり、自己嫌悪に陥ったりもしない。特に熱狂するような恋愛をするわけでもなく、淡々とつまらない日常を並走している。

最後に自己だが、大きな変化があった。タフな事柄が連続したときに、目の前が暗くなった。それを契機に数日間の休暇と、検査入院を繰り返した。その合間にも、やるべきことが襲いかかってきて、それも全てこなした。もう若くないと悟った瞬間だった。幸いに、影響の範囲は小さく、まあ少し運動しながら、生きてください、とドクターに言われた。

とまあ、つまらない日常、昨日と同じような今日を謳歌し、今日と同じような明日を期待するんだろう。

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数分あるく。ホットコーヒーを手にしてコンビニを後にしつつ、なんだか見慣れてしまった道をあるく。
「海沿いをあるいた日もこんな感じだったね」と問うと、「そうだったかもね」と応えられた。

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