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『あたたかい時間』

3月中旬、じっちゃんに人生で初めて怒られた。

 じっちゃんとは、祖父の愛称である。僕が2歳の時にはすでにそう呼んでいた為、20歳の今、今更“お爺ちゃん“と呼び直すのは少し恥ずかしい。

病気の発覚と自宅療養

 3月の初旬、じっちゃんに癌が見つかった。
以前からずっと痛みを我慢し続けていたらしい。肺から肝臓に転移している事が発覚し、手術で摘出する事も体力的に難しいと医者から言われ、本人の意思で自宅療養になることが決まった。
足の痛みから、歩く為には歩行器が必要になった。そこから1週間もしないうちに、だんだん歩けなくなり、1日の大半をベッドで過ごす生活が始まった。



家族と介護

 自宅療養が始まった頃は、二世帯住宅に住む叔母さんを中心に、母、祖母、叔父、些細な事しか出来なかったが私、で介護をしていた。体重が約80kg前後ある“じっちゃん“の移動を手伝うのは、1人では出来ず、常に2,3人が側について行っていた。膀胱の筋肉が弱っていた為、30分に1回のトイレが日常になると、夜も眠れない日が続いた。
 
 祖母も現在働きに出ていて、私達が離れて暮らしていることもあり、叔母家族が中心となって面倒をみてくれていた。
最初の方は自分でも体を動かし、物を食べてはいたが、だんだんと弱くなっていく自身の体と、どうにもならない状況から、最終的には家族、ヘルパーさんにも当たるようにようになってしまった。


安定剤と夜ご飯

 ある日の夜、夕飯を食べ終えた“じっちゃん“は安定剤を服用した後、トイレに行く為に私、祖母、叔母を呼び出した。寝たきりの生活をしていた為、体はほとんど自力では動かせない状況になってしまっていた。祖母と叔母に当たり、僕が近くにいくと、まるで私が喧嘩相手に見えているかの如く怒鳴った。

“おめえ、近くにいるな。どけよ。“

この言葉を聞いた後、私は泣き崩れてしまった。
じっちゃんに怒られたのが悲しかった訳ではなく、どうしてあげる事も出来ない自分の無力さと、目の前に存在する確かな現実から目を背けようとする自分が悔しかったのである。どれだけ泣き崩れても、最後まで、じっちゃんの手を握り続けた。
しかし、じっちゃんの目は一点だけを見つめ続けたままで、こちらの事は認識していないようだった。
 
 帰り際、挨拶をする為にベッドの部屋に行き、声を掛けた。

“帰るよー! また来るからね!“

私の声を聞いた “じっちゃん”は、少し笑顔で “飯...” と呟いた。
先程とは全く違う、暖かい表情を見せ、孫である僕の空腹を心配してくれた。
いきなりの事だったので、つい笑ってしまった。

玄関で叔母さんは、“ごめんね、あんな事言われたら来たくなくなるよね。“と
僕に言った。しかし僕の中では、1番辛いのは本人だと思っていたので、“また来るよ“と伝えると家を後にした。

 その後、じっちゃんの容態は次第に悪くなっていき、声を出すのが精一杯になっていった。


家族で看取る

 日曜日の午後、家族で集まり夕食を食べるのが日課だったので、僕は父を乗せ車を走らせていた。到着するやいなや叔母さんが駐車場まで出て来て、すぐに来て欲しいと言った。息が荒くなってきたとのことだった。
すぐに看護師さんを呼び、じっちゃんの近くに家族全員が集まり最後の時間を過ごした。
 悲しいのはもちろんの事だが、僕は、じっちゃんにとって一番温かい時間なんだと感じた。なぜなら入院していたら、立ち会えなかったかもしれないからだ。
主治医の先生も一緒に涙を流しているのを見て、じっちゃんは本当に温かい人達に囲まれているんだと確信した。その時、僕は改めて自宅療養という本人の希望の為に手を貸してくれた全ての人々に感謝をした。
 

 きっと家族にとって大切な事は、家という場所、過ごす時間にあたたかさがある事だと感じた。どんなに現実が残酷でも、必ず帰ってきてしまう、人が自然と集まる場所がある事も必要なのだと。


ヘルパーさん、看護師さん、お医者さん、そして今回の事で関わって頂いた全ての方、本当にありがとうございました。


“じっちゃん“ 俺、頑張るからね。


本当にありがとう。






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