育児してる人凄すぎて凄い

 育児に1640万円掛かると知った。思わず言葉を失った。それだけあれば少なくとも世界2周以上はできるし、起業だって試みることが出来る。事業に失敗できる額だ。大学院に進学して修士号や博士号を取ることが出来る額でもある。数回の転職や海外移住・留学も可能だ。つまり、経済的・地理的・職業的・学業的な冒険を「棒に振ってまで」する価値があると判断した人間がすることなのだ。

 そんな判断はとても出来ない。そんなことにはとても耐えられない。私自身の人生を犠牲にすることになるのだ。「親になれば本能的にそう感じる」と主張する人もいるかもしれない。確かにそういう人が居るというのは想像できる。もし誰かに酒でも飲みながらそう言われたら「そういうものかもしれませんね」と、つい同意してしまう自分の姿さえ想像できる。しかし、もしも”そうは思えない”と内心で思うならば、それを最後まで無視し続けることは出来ないだろう。なにせ、育児は20年以上もかかるのだ。最初はもちろん楽しいだろう。友人や存命の親も祝福してくれて、このために生まれてきたかのような喜びに満ちた日々を送ることになるだろう。しかし、そのような「ビギナーズ・ハイ」は長くは続かない。暫くすると育児の真新しさによる新鮮な驚きや喜びは薄れ、果てしない苦行に耐え忍ぶことになる。重圧が人の本性を暴く。そして知ることになる。自分が「どちら」の親なのかを。子供好きな人は本当に好きなのだ。母性や父性に溢れた人が「子供の笑顔を見るだけで元気になる」と本気で言っている中で、自分は全くそう思わないのにそのフリをし続けることは出来ない。そんなことをしたら反動で虐待してしまうかもしれない。そうはなりたくない。

 きっと、家計や仕事に翻弄され、外面を取り繕うことに慣れた大人同士にとって、世間体や様々な情報に翻弄され子供の自由を制限してしまう「ニセモノの親」と、本当に子供を愛し、子供自身の意思決定権を尊重する「ホンモノの親」を見分けることは難しいだろう。殆どの大人にスーツを着せて仕事をさせれば表面上は「一人前の大人」の及第点をクリアしているようにしか見えないのと同じように、親に関してもきっとそう見えるのだろう。

 しかし、子供の目は誤魔化せない。子供たちは「ニセモノの大人」と「ホンモノの大人」のみならず「ニセモノの親」と「ホンモノの親」の違いにも敏感だ。それは究極的には言語化出来るものではない。大人になることと社会人になること、そして親になることは違う。子供は感じている。子供は親たちを、まるで株主の如く冷酷に品定めするものだ。しかし大人はそれを感じられない。ハラリ教授が「サピエンス全史」で述べたように、大人たちは、彼ら自身が作り信じ込むフィクションの文脈に入り込んでいる。映画もテレビもそのために機能している。だからそのようなことについて語る文脈が、大人の世界にだけ存在しないのだ。

 子育てには様々な困難が付きまとう。そしてそれに関して我慢しなければならないが、「何に我慢しているのかすら分からない」という状態がきっと一番辛いだろう。

 「ホンモノの大人」そして「ホンモノの親」足る人とはどのような人だろうか。分からないが、私にそのようなものは無い。こればっかりは他人にヘラヘラ説得されるわけにはいかない。他人にうっかり説得されたり、世間に流布する「幸せな家族」に感化されて子供を作りでもしたら、犠牲になるのは何の罪もない一人の人間の、80年ほどにも渡る人生なのだ。それははっきり言って、80歳の老人を殺すことよりも残酷なことに思える。

 私は、完璧とは言えないが大分「マシな」家庭に生まれたのだろう。感謝の気持ちが湧いてくるからどうかというより、(ソマリアの海賊と比べて)相対的に恵まれた環境を与えてくれたということに対して彼らに感謝すべきだ、と思う。

 こうして改めて考えてみると、今現在子育てをしている人達は本当に凄いものだ。尊敬とは少し違う。敢えて言えば畏怖だろう。何のメッセージが込められているのかさっぱり分からないがとにかくインパクトのある前衛芸術を見たときのような驚嘆の念に近い。いやぁ、すげえもんだなぁ、と思う。立ち上がって拍手の一つもしたくなる。インスタで「いいね」が付くのも当然だ。それこそ本能的な反応だろう。

 しかし、だからといって自分もやってみようとは思わない。そういう類の営みだ。子供を育てている人は本当にスゴいもんだ。私には出来ないだろう。私はそれを可能にするだけの時間とお金で、他のことをしたい。

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