手に入れる前に

 仮に、僕が結婚していて子供がいるとしよう。そして、離婚したいと思っているとする。理由は何でもいいが、とにかく「もうこの人とは一緒にいられない」と思ったのだし、それが一番賢明な判断だと、直感が告げているのだ。

 すると、僕は誰かしらに「離婚なんてけしからん。なんて無責任な男だ。夫として恥ずかしいと思わないのか?親御さんも悲しんでいることだろう。子供のことは考えたのか?」などと責められるリスクを負うことになる。それは友人かもしれないし、同僚かもしれないし、最もありそうな話としては、自分かもしれない。すると僕は、立派な男とは、立派な父親とは、立派な夫とは何かといった答えの出ない問いに、無理やりにでも答えを出してスタンスを表明しなくてはならなくなる。そんな事を考えるのに慣れていなくて、ついありがちな小説にそれらしき考えを求めてしまうかもしれない。

 堂々巡りの思考の中でふと、「どうして、結婚するときは誰もが手放しでそれを祝福したのだろう?」と思うだろう。いや考えてみれば、結婚に限らず、ぼくらの文化では人が何かしらの称号やら状態やら契約やら物やらを手に入れるとき、手放しでそれを認める傾向がある。少なくとも、しかめ面で理由を問いただされたりはしない。オスカー賞を受け取る理由を問うレポーターは居ないが、受賞を拒否した俳優のもとには多くの記者が押しかけるだろう。東大に入学した男は当然そこに行くものだと思われる。行きたくないと言えばそこで初めて理由を問われる。大体の場合、ぼくらが何かを手に入れようとする時に問われるのは能力であって理由ではない。マンションを購入するとき、ローン審査はされても購入動機について3000字以内のエッセイを書かされることはない。就職活動の志望動機は大抵は儀礼的なもので、能力や経歴が認められて面接官に気に入られれば就職することができる。大学入学試験はテストに受かればいいのだし、入学面接やエッセイだって就職と同じようなものである。要は、相手が求めるモノを提供出来るかどうかを試されているのだ。

 しかし、いざそれらを自らの意思で手放すとなったとき、それらを手放す理由のみならず、そもそも手に入れた理由が、他人の質問に答えるためだけではなく自分のために必要となる。でもそれって、手にする前にも考えられるんじゃないだろうか?それに、失う前にそれを手にする理由を述べられる人であれば、それを失わずに済むだけでなく、それとともに有意義な体験を出来るんじゃないだろうか。

 寧ろ、手に入れる前にそれを手にする理由を表明して本気で望んでいる事を自分自身に示せないと、何をしてもそれを上手く活かせないんじゃないだろうか。少なくとも、僕はそんな人な気がするのでした。

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