「スズメちゃん」


小学低学年の頃、下校途中の通学路でスズメが死んでいた。閉じた瞼は灰色だった。

その日は集団下校の日で、太陽に照らされたたくさんの黄色い帽子が揺れ動くのを向日葵みたいだなと思ってた。

死んだスズメを囲んで騒ぐ皆に混じってみたものの、誰ひとりそのスズメに触れようとはしなかった。私はスズメよりも皆の表情ばかり見ていたように記憶している。皆はどうしたいんだろう。何を思ってここにいるんだろう。

可哀想だと思うならあなたが持ってる、その可愛いハンカチで包んであげたらいいのに。気持ち悪いなら輪に混じってないで見なければいいのに。死んでいるスズメを枝で突いて何がしたいんだろう。何が面白いんだろう。


両手でそっとスズメを包むと皆は驚いた。
埋められそうなところに埋めるからもう帰ろうと言う私が今度は囲まれる。うわあ、えっ、そんな声が聞こえたけれど、掌に乗せる時どこを持ってあげたらいいのかがわからなくて、首がグラグラと動くものだから早速触れたことを悔やんだ。近くで見れば見るほど閉じた瞼の色が汚くて、すっぽり掌に収まる体とはみ出た羽の小ささ、吃驚するくらいの軽さ、可愛いと思った。



もう誰だかも覚えていない。
私の両隣にぴったりくっついて、掌にいるスズメを覗き込んではすごいね、可哀想だねと言う子達に苛立った。

その時の私が本当はどうしたかったのかを考えると、ただ好き勝手言いたい事を言い、立ち止まって見ているだけの子や、その辺で拾った枝でつつく男の子が腹立たしかっただけだった。死んだスズメに触れたくはなかった。そのままにしておくことが正しいことのように思えたから。
今の私がそう記憶して思うだけで、もしかしたらいい子に思われたかっただけなのかもしれない。


その日からしばらくの間、私のあだ名はスズメちゃんだった。まるで私が死んだスズメそのもののように思えて好きではなかったけれど、受け入れていた。1週間もしない内にそのあだ名は消えていった。そして私の中でのその記憶も知らない間に消えていった。


死ぬということは、こういうことなのかもしれないと幼い私はぼんやり思っては悲しくなったのを憶えている。

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