大雨の日トンネルを越えて

小学3年生の頃、同じクラスの友達と遊ぶ約束をした。学校から家までの道のりは小さな歩幅で40分〜50分はかかるところを、早歩きと時折走って30分。


ランドセルを置いて、自転車に乗る頃には大きな雨粒が強く降り出して顔が痛かったけれど、その子のお家で遊ぶのは初めてで、そんなことは気にならないくらいご機嫌だった。


通学路でもある長くも短くもないトンネルは、坂と坂の間にあった。蛍光灯は仄暗く、その周りを虫が飛び回っていた。コンクリートの壁は黒、赤、蛍光緑の落書きだらけで音が反響し、何かがいそうな雰囲気があって、1人で通る時はいつも走った。


友達の家に行くには、下り坂からトンネルに入り、上り坂途中の脇道を右へ曲がらなければいけない。


下り坂で勢いが付き過ぎた自転車にパニックになった私は、ハンドルをあちらこちらに曲げながら尖ったコンクリートに真っ直ぐ向かっていった。一瞬の出来事で、気付けば自転車に跨ったまま横たわっていた。


左脚の脛部分がじんじんと脈打つように痺れて、肉なのか骨なのか白いものが見え、その周りを這うように出てくる血は鮮やかな赤で、しばらく見蕩れていたように思う。こんなに澄んだ綺麗な赤を客観的に見たことがなかった。脚に落ちる雨が、滲み出る血をより澄んだものにしていた。

そのままじっとしているわけにもいかない。携帯を持っていない年頃で、連絡することすら出来ない。友達が待ってるから行かなきゃ、あともう少しだからと自転車を起こし、そこからは歩いて友達の家に行った。

玄関ドアを少しだけ開けて、ずぶ濡れの私を見た友達は申し訳なさそうに「今日は遊べない。ごめんね。」と言った。家の中からは笑い声が聴こえた。足を怪我したから絆創膏だけもらえないかと言ってみたけれど、それも断られ、迷惑がられていることを察した。

自転車に股がり、泣きながら家に帰った。
友達は待ってなどいなかった。


帰り道の記憶はない。
行きと同じように雨に打たれながら、全く真逆の表情で帰ったのだと思う。


家に着いてからは、ケガをしたことがバレたら怒られる。それだけだった。
傷を長い靴下で覆った。寝る頃には靴下に滲んだ血や液体は固まっていて、脱ぐのに苦労しながら、靴下まで滲まないようにと幼い私が考えついた方法は恐ろしいもので、ティッシュを四角に折って傷に直接当て、また長い靴下を履いた。

翌日左脚の痛みはどんどん増してきて、不自然な歩き方をする私を担任の先生は見逃さなかった。どうしたのか聞かれて正直に答えると保健室に連れていかれた。

保健室の先生も、担任の先生も、私の足を見てゾッとしていた。

皮膚と靴下が引っ付いて、脱がすというより剥がす作業の後、緑と赤と黄色のまだら模様になったティッシュはほとんど傷と一体化していて、丁寧にピンセットで剥がしてもらう時には気が遠くなるような痛みが走り、酷い匂いがした。

担任の先生は、私を叱らない代わりに怖い話をした。怪我に適切な処置をせず放置してバイ菌が入って肉が腐り、最後は脚を切断しなければならなくなった誰かの話。


その時の傷は今も残っているけれど、至近距離で見ない限り分からない程度の傷跡になっている。

怪我をしたことで両親から怒られる事しか頭になかった幼い私を、当時の保健室の先生や担任の先生はどう思っていたのだろう。

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