食卓に住み着いていたもの

家族と囲む食卓が私は大嫌いだった。

父と母、そして私の3人家族での食卓はお茶碗は人数分、おかずは一品で大皿に盛られ、たまに汁物がある。

私が小学3年生までは、月に何度かの週末に10人は囲めるであろう低くて重い木のテーブルの上にたくさんのおかずが並べられ、(決まってそこには水餃子と蒸した豚肉があった。)家族ぐるみの付き合いになっていた母の友人達との食事会があった。

いつからかそのテーブルはベランダに立て掛けられて放置されるようになり、最後に見たそのテーブルは汚く変色していた。父の定年退職と貯蓄が兄に盗まれたのはその頃だったんだと思う。母とよく市役所に行った。

食卓には、いつも言い争いが住み着いていた。親戚の誰々がどうこう、いや、違う、いや、こうだった、真偽のわからない噂話やお互いの記憶違いで声を張り上げ合う2人に挟まれる時間。それらを聴く時間だった。中学生になってからは酔った父からの怒声と箸が私へと飛ぶようになって、母は見て見ぬふりをしていた。

その目はなんだと言われることに慣れた頃、私の目はいつもお茶碗と大皿を行き来するだけになり、顔を上げることがなくなった。私の目は人を不快にし、怒らせる。人と目を合わせることがどんどん苦手に、嫌いになっていった。

我が家のルールは、お茶碗に入ったお米がなくなったら席を立っていいというもので、早くその場から離れたいがためにお米は徐々に減らしてもらい、最終的には自分でよそうようになっていた。本当は父が食べ終わるまで席を立ってはいけないルールがあったけれど、何も入っていないお茶碗を無言で見つめる私がいると居心地が悪かったのだろうと思う。


家族との食事の時間が主だった中学生を卒業するまでの間、朝と夜の食事が1番苦痛で、特別何かを美味しいと思ったり、好きだと思ったりすることはなかったように思う。おかずがたくさん出てくる給食は食べられる量や食べ方がわからなくて、私はいつも最後の一人だった。

ただ父がいない時に、母が私の為だけに作ってくれた梅干しと卵の炒飯おにぎりは大好きだった。三角に握れない母のおにぎりは、いつもぎゅっと強く握られた丸形だった。甘酸っぱくて美味しい、懐かしい思い出の味として根強い。

皮から手作りだった母の作る水餃子は、タネもブロックの豚肉を中華包丁で細かく叩いて作っていた。ニンニクは匂いの染み付いた壺の中で何度も潰して砕いていたからニンニクチューブを見たことがなかったし、ラー油は大量の鷹の爪と油で作っていて、リビングにいると目が熱くなった。トマトと卵の炒めものなんて絶品で、どこで食べても母を越える味に出会えたことがなく、見つけることがあっても食べるのをやめた。水餃子も同じだ。チルドでも外食でも焼いたものしか食べなくなった。比べて思い出すことが嫌だった。

水餃子、トマトと卵の炒めもの、梅干しと卵の炒飯おにぎり、どれも目分量なのにいつも同じ味だった。

レシピを細かく聞いておけばよかった。
もう二度と食べることのない、記憶の中だけのその味達を懐かしむことがないように。

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