見出し画像

善行を素直に行うことも素直に受け止めることも難しい

雨は昼過ぎに降り始めました。でも、早めにやんで今は日が差しています。洗濯物は、被害を免れました。

さて、……

世のため人のために何らかの役に立ちたい、という気持ち。これは、多くの人の心の中にある素朴な願望だと思う。

但し、それは必ずしも無償である必要はないと私は考える。正当かつ適正な利益を得ることは、人が生きていくうえで必要だからだ。自己犠牲の心よりも、「我も良し、人も良し」という発想の方が長続きするように思う。

そもそも社会の大部分は、正当な経済活動によって担われている。ボランティアはあくまでも補完である。就活においても、自分がただ金儲けをしたい人は少なく、その企業活動を通じて社会に役立ちたいと考える人が多いはず。

もちろん、中には無償でやられる人もいる。そのこと自体を否定はしないし、その心がけは尊いとも思う。ただ、その域に達すると善行と認識され、別な方面でいろいろと軋轢が生じることが多い。

善行というのは、100W電球のような明るさを伴う。まばゆいばかりの輝きであるがゆえに、自らの後ろ暗い部分まで照らし出されるように感じてしまう人も残念ながらいるのではなかろうか。

そのため、その居心地の悪さが作用した人から、アレコレと否定的な評価を加えられることがある。端的には「売名だ」「偽善だ」と非難されてしまうことがあるのだ。

だから善行をする本人も、社会性があればあるほど世の中にそういう事象が発生しがちであることを認識している。それ故にこっそり人目に付かないようにと、ものすごく気を遣ってしまう人がいる。

その結果、タイトルに記載した通りの状況が発生してしまう。これはただそうなるというだけでなく、それを避けるために善行が行われなくなることも起こり得る。これは、もったいないことだと思う。

「自分はあの人のようにはできない」という気持ち。申し訳ないとの感覚を伴うものだが、これをバカボンのパパのように「これでいいのだ」と受け止められるようになること。平凡な我々が身に付けるべきは、こういう割り切りではなかろうか。

それができれば、「自分はあの人のようにはできない」という申し訳なさを他者への非難で誤魔化すこともなくなり、大げさに言えばあるがままに生きられることにも繋がる。

人間、できる範囲でできることをすれば良い。そして、そのことを殊更に卑下する必要もないと思う。人はそれぞれ持って生まれた特性も、抱える事情も異なるのだから、むしろそう考える方が自然である。

これから、災害が発生する季節に向かう。そういうタイミングだからなのか、ふとこんなことを考えてしまった。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。