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恨みの連鎖を断ち切ることは必要だが困難

昨日遅くに帰ったせいか、一日中睡眠不足でしたw

さて、……。

令和の世となって久しい。中東戦争を知っている人も少なくなってきた。それでも、イスラエルとアラブ諸国が不仲なことはご存知のことと思う。

宗教が違うし、はるか昔の聖書に書かれた「約束の地」を根拠に現状を無視してイスラエルを建国したことに対し、元々住んでいたアラブ系の人間が反発するのは当然である。

そんな紀元前の話を持ち出して……というのが日本人の率直な印象だと思う。

が、確かにそこまで昔の話ではないけれど、日本でも恨みの連鎖はあると私は思っている。

関ヶ原の戦いで、毛利輝元は西軍の総大将としてまつりあげられ、戦後仕置きされた。東軍と直接戦ったわけでもないが、中国地方の大大名であった毛利氏は周防・長州のみに所領を限られた。そのため、家臣は俸禄も減らされることとなりその生活が困窮することになった。

真偽の程は定かではないが、長州藩では毎正月、藩主と家臣で「江戸に攻め込める機が熟したか」を問答していたと聞く。

そして時代は下って幕末。藩政改革を成し遂げた長州はやがて薩摩と薩長同盟を結んだ。そして第二次長州征伐軍を撃退すると鳥羽・伏見の戦い、江戸開城、戊辰戦争と内戦を継続し勝利していく。

ちなみに薩摩は関ヶ原後にほぼ本領安堵を勝ち取っていた点で長州とは異なる。この対照的な2つの藩が同盟を結ぶのも歴史の綾だが、長州にとってはまさに積年の恨みを晴らす戦いであったと思っている。

だから、幕府側についた奥羽越列藩同盟に対する仕置きが苛烈になったのも、やむを得ない一面があった。本来は幕府に向けるべき恨みが、「敵の味方はやはり敵」となってそちらにも向かったように思う。

長岡藩もその対象の一つとなった。戊辰戦争で大部分を焼失した長岡城はそのまま廃城となり、その後鉄道敷設で城跡は長岡駅となった。今では地名に名残を留める程度でリアルに跡形もなくなってしまった。

ちなみに、会津若松は逆で城は残っているが、東北本線の通過地には選定されなかった。このようなことがあったからこそ、今でも当時の恨み・無念の思いが端々に残っていて、時に表面化する。

恨みを晴らすことは次の恨みを生む。そのことは知っておく必要がある。

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