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「友達がいないんじゃないの?」という言葉に潜む薄ら寒さ

今日は、相変わらず庭木を切っていました。冬が近づき太陽が低くなっており、隣家との垣根をもっと切り下げて日の光を取り込みたいなあとの一念からでした。

さて、……

残念ながら、全ての人がお互いを尊重し、敬意を以て接して和やかに会話し、すぐに合意に至るというのは夢物語である。これは断言して良い。

幼少時には「みんな仲良し」と言われてそれを信じかけていたけれど、その効用もせいぜい小学校低学年まで。成長につれて自我が育ち、個性となって表れてくる。そうすると、人も合う合わないの問題が出てくる。

何となく気の合う子同士で遊ぶことが増えてゆく。時にはそれが行き過ぎてグループ間でケンカに発展することすらある。ギャングエイジという言葉もあるが、それも誰もが成長過程で少なからず経験すること。

人は本来一人で生まれ一人で死んでゆく存在。しかしながら、生きる過程で一人でいたい人は限りなく少ない。大抵の人は友達を欲するし、一般的に友達の存在は無条件にありがたいものだと認識されている。

仮に友達がいない場合、そのことを人に向かって胸を張っては言いにくい。そんなことを言おうものなら、何となく人として欠陥があるかのように受け止められる。

最近は聞かなくなったが、一人で食事(主に昼食)を摂ることをボッチ飯と言って蔑まれるようなこともあった。友達に合わせて、自分が食べたくないものを美味しいと言ってつき合うのは正直卑屈だと思ってしまう。

このような諸々から、言動が強めな人間に対し言い返す言葉として「友達がいないんじゃないの?」というのがある。この言葉、直接的ではないけれど人格非難に等しいと感じている。

この言葉のイヤらしいところは、多くの人が求める一方で、意のままにもなりにくい友達の有無を持ち出してマウントを取る点だと思っている。そしてその前提には、友達がいないのが悪いという価値感がある。

多くの人が求める友達という存在であるが、私はいなくても別に悪くないと思っている。いたらいたなりに面倒くさい。「友達だろう?」等と言って本意ではないことに同調を求められることも実際にあるのだから。

加えて、学生時代以降長い間音信不通だった人からの突然の連絡には、強く警戒した方がよいと思っている。大抵は、宗教かネズミ講まがいの勧誘である場合が多いからだ。

長く生きるうちに、友達も「更新」されてゆくのが実態のはず。だから過去にあったおつき合いまで今も続いているものとしてカウントし、交友関係の数をいわゆる顔の広さとして自慢するのは、率直に滑稽だと思う。

実際、その全ての人間が自分のために損得を考えずに行動してくれることがあるだろうか。あると言い切れるのであればともかく、普通はその域まで達しないことが多いだろう。

そもそも、友達がいなくても自分にできることがたくさんある、と言えればよいのである。いればbetterではあるが、それ以上の価値を持たせ過ぎていることに気付くべきではなかろうか。

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