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「人」という字は、「ノ」と「ヽ」の支え合いを表していることに気づかされた

父の訃報は、今から4年半前の日曜日の朝に突然飛び込んできた。

厳密に言えば、その時点では医師の診断を受けたものではなく、恐らく死んでいると推定される客観状況を伝えるものであったが、それでほぼ足りた。

慌てて車に乗って、妻子共々実家に駆けつける。

向かう高速道路の車中で、ざわざわとした落ち着かない気持ちが胸中を駆け巡る。それを抑えるべく「事故を起こしてはシャレにならない」と自分に言い聞かせる。

やっと、実家にたどり着く。パトカーがわが家の前に2台、赤色灯を回して停まっていた。

先に到着していた姉が私を出迎えた。

この日は、家で亡くなった人が多かったらしい。警察医が払底しているとのこと。

そういう「お迎え日」があるのだろうか?

警察も手を尽くし、やっと隣の地区の警察医が来てくれて、死因と死亡推定時刻を告げてくれた。

これにより、父の死亡が診断された。しかし、出されたのは死亡診断書ではなく、死体検案書であった。

病院に入院し、死因が予めわかっている場合は死亡診断書になるけれど、異状死の場合は、死体検案書になるとのこと。様式は同じだが、何となくイメージが良くない。

葬儀・告別式は、葬儀業者の組んだ段取り通りに進む。ただ、尾羽打ち枯らした母の姿を見るのは辛かった。それでも取り乱すことはなく、淡々と進んでいった。

この後、従来通りであれば母は実家に1人で暮らすことになる。

施設入居の選択肢も提案したが、まだ認知は正常で足腰はやや不自由だったものの、本人も施設で今更新しい人付き合いに煩わされるのはイヤだと拒否。

たまたま要介護1の認定を受けていたことから、従来通りの在宅介護で対応することで家族は合意した。

父の死後半年ほどは、私も登記や相続手続等で月に1~2度は帰省する必要があり、それほど母も寂しさを感じなかった。

また強引にiPadを用いたFaceTimeで毎朝の会話を始めたこともあり、人と接することによる認知の維持はできていた。

このままある程度順調に行けると思っていたのだが……。

父の死から1年が過ぎようとしたある朝、母から切羽詰まった電話が掛かってきた。朝トイレに行こうとしたら、転んで倒れて動けないとのこと。遠いところに住む私はどうにもできない。

在宅介護のホームヘルパーの派遣元に電話するように伝え、それにより母は救急車で搬送されて病院に入院することとなった。

診断結果は、左大腿骨転子部(付け根)の骨折。転んだ拍子に骨折してしまったようだ。

母は、ショックを受けていた。老いを感じたのだろう。それでも、最初は気丈に構えていた。しかし、入院中に急速に認知が衰えていった。

入院のストレスで認知が進むことは多い。2ヶ月強の入院期間を終える頃には、人格がかなり変わっているように感じた。

それを防ぐ手立ては、私にはなかった。

更に、これでは実家で生活は無理である。ホームヘルパーの派遣元のケアマネジャーの勧めもあり、とある老人ホームに入居することとなった。

その後、何度も母を見舞ったのだがどうも話が通じず、よくよく聞くと私と従兄の記憶が入り混ざっていることが分かった時の衝撃は、今も忘れない。

転倒→骨折→入院→認知の進行というのは、典型的なパターンでお年寄りにはよくあることなのだけど、現実に目の前でそのさまを見せられるとショックが大きい。

仲睦まじく暮らしてきた父母。人という字の通り、二本の棒がお互いを支え合って何とか暮らしてきた。

その片方の一本が倒れた時、もう一本も立ってはいられなくなるという事実を見せつけられた。そして、それはリアルで起こることに気づかされた。

後追いながら遠隔介護を継続する日々であるが、ではどうすれば良かったのかを自問自答している。


#一人じゃ気づけなかったこと

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