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都合の良い時だけ子どもを持ち出さない

世の中には、子どもを盾にとった主張があふれている。「子どもたちに明るい未来を伝えたい」「子どもたちが夢と希望を持てる社会に」「子どもたちに美しい自然を残そう」……

どれも、全く以て正しい。だけど、そういう伝え方をされると、私はすごく疑わしく感じてしまう。

そもそも、何で子どもを持ち出さなければならないのか? 大人は明るい未来を望んではならないのか? 夢と希望を持てなくても良いのか? 自然の存続を願ってはならないのか? 

そんなことはないはず。それなのに、わざわざ子どもを持ち出す。ひとことで言えば、情緒に訴える効果を狙っているからだろう。

寄付を募るダイレクトメールに添付されているチラシの写真は、ほぼ間違いなく子どもが被写体となっている。それも結局は、理屈ではなく情緒に訴えかけて目的を達成しようとしているのに他ならない。

本来、大人子ども関係なく全ての個人が等しく幸福追求する権利を持っている。そこから議論をスタートさせるべきだろう。情緒に訴えるのは、この議論を避けるか、異論を出しにくくするための方便のように感じてしまう。

それに子どもたちは、いずれ大人になる。大人になれば後は知らんよ! という態度の方が、余程無責任ではなかろうか?

まず、大人が未来を明るいと信じられ、夢と希望を持てて、自然と調和して生きられる社会が実現するべきである。そうすれば、当然それは子どもたちに引き継がれていくだろう。本来は、そうあるべきではなかろうか?

つまり冒頭の「子どもたち...…」の主張は、順番が逆なのである。現世を諦めた浄土信仰の変化系のように感じられてしまうのだ。

もちろん私も、今の世の中は大人が生きやすいとは思っていない。その実現には多くの面倒な議論や調整が必要なことも分かっている。でも、耳当たりの良い言葉を用いて本質から目を反らすのは、かえって解決を困難にする。

少なくとも、月曜日の朝に頻発する人身事故の報を聞いて、舌打ちしたりその人への恨み言が浮かんだりするのが当たり前になってしまった今の世の中は、何とかして変えなければならない。そう思っている。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。