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推しに優しい人が、推しの敵には容赦ないのが気になる

天気予報通り、帰りは雨が降っています。自宅の最寄駅に着く頃に上がらないかと淡い期待を抱いています。

さて、……

インフルエンサーと呼ばれるネットで影響力の大きい人には、たくさんのファンがいる。「ファンの熱烈な支持の対象者」=推しだと認識しているが、ファンは推しにはとても優しい。

しかし、それは人格としての優しさとは明らかに異なる。もっとわかりやすく言えば「ひいき」である。あらゆる人にその優しさが向けられるわけではない。

まして、推しに対して悪意に基づくネガティブな言葉を投げかける人に対しては、全く優しくない。というより、容赦なく辛辣な言葉を投げつける人が多い。

私は、自分が人に対して淡泊な性質であるため、人に対する思い入れが普通の人ほど強くはない。それ故に人に対する好き嫌いもそれほど強くない。よほどのことがない限り全人格を好きになったり嫌いになったりしない。

だから、その点では人に対してかなり平等に接しているとも言える。ただ、この点を若干悪意を持って見れば「ペルソナをかぶっている」「腹の内を見せない人」という言い方もできるかも知れない。

明らかに嫌がらせをしてくる人間というのもたまにはいるし、Mっ気はないのでそういう人をもちろん好きにはなれない。そこまで人格者ではない。

なお、その悪意があくまでも自分に向けられている場合には嫌いになるのだけど、推しがいない私は「推しに悪意が向けられたことで悪意の発信者を嫌いになる」という感覚が理解できない。

そして、そのように人によって露骨に態度を変えることも大人の振るまいとしてどうよ? という気持ちになる。

もちろん、悪意の発信者をかばうつもりはさらさらなく、その行為を許容するつもりもないことはお断りしておく。

「人として善悪について旗幟を明確に示すべきだ」、或いは「悪意によって攻撃されている人に、寄り添う姿勢と共に戦う意思を示すべきだ」というのもわからなくはないのだけど、敵味方を完全に分けて態度も変えることにはどうしてもなじめない。

これまでの人生で多くの人と付き合ってきた。でも、その中で今でも残る付き合いは少ないし、これからも徐々に減っていくだろう。それは、年賀状の数を見れば明らかである。

そういう経験からすると、推しにどんなにのめり込んでも、いつまでもその気持ちが持続することは少ないだろうと推測されるし、そうであればあまり片方に強く味方することもナンセンスだと感じてしまう。

社会において良き市民として暮らせればそれでよく、だから社会秩序を乱す行為に対しては批判もする。だけど、あそこまですり寄る必要はないのではないかと思う例がいくつかあったので、ついこのようなことを書いてしまった(何か見た)。

お読み頂き、ありがとうございました。

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