見出し画像

今の自分は自分らしい自分かを今でも考える自分がいる

さて、……

平日、当たり前のように出勤し、ルーティンワークを無難にこなし、訳の分からないクレームの内容を理解するところからはじめて、それを共有して相談して何とか処理して、逆に持ち掛けられる相談に対処して……。

自分としては、少なくとも自分なりには頑張っていると思っている。人がそれを見てどう評価しているのかは分からないけれど、bestかmuch betterな結果となるように努めているつもり。

同じ人から相談を持ち掛けられるのも複数回あるので、それなりに役には立っているのだろう。もちろん、ルーティンワークで提出したものについてもたまに問合せがあるけれど、大多数は流れていっているので問題はないかと。

ただ、そうやって頑張ってはいるものの、自分がそんなに仕事好きな人間かというと自分で疑問符が浮かんでしまう。学生時代にこういう生き方をしたかったのかと問われたら、それは明確にNo!だろう。

もっとも、学生時代に見た社会は、もっと元気だった。「失われた20年」という言葉があるけれど、20年間何も進歩しなかったわけではない。

電子メールが普及しただけでも驚いたのが、携帯電話も普通になり、写メールも当たり前になった。SNSで複数の見知らぬ人との交流もできるようになった。スマホは空き時間の過ごし方を変えた。大きく社会は前に進んでいる。

ただ、元気と余裕は間違いなく失われた。「24時間戦えますか」という言葉が流行った頃は、朝まで働いても高揚感を味わえた。今は加齢の部分が無かったとしても、翌日のことを考えてそういう無茶はできなくなった(労基法の問題はもちろんある)。

常に「ちょっと違うな」という思いを感じつつ、それも日々の繁忙の中に紛れて脳の片隅に追いやられる。

それでもちょっと気付いたのは、自分は仕事が好きなのではなく人の役に立ちたい欲で動いているということ。言い換えると、人の役に立つために仕事をしているのであり、仕事はあくまでも手段なのである。

だから、人の役に立つ手段として今の仕事以外ではダメなのか? という更問いが脳内に湧き起こってしまう。「ちょっと違うな」という思いの根源は、そこにあると思っている。

もちろん、今の状態を全否定するものではない。それなりにお役には立っているから。でも、自分のコアな能力や興味によるものではない点、どうしても引っかかる。端的には「自分らしい自分か」との自問自答になる。

「世の中、そんなものだよ」と言われればそれまで。でも、50代半ばを過ぎてもそのようなことを考えるのは自分の不完全燃焼状態を自覚しているからで、それを何とかしたいという渇望があるのも確か。

しかし……やっぱり無責任に「自分を信じて」等とは人にはもちろん自分にも言えない。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。