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能力という見方は人への接し方を優しくする

毎日寒いです。体を温かくしてお過ごし下さい。

さて、……

私のnoteを長くご覧頂いている方はお気づきだと思うけれど、私は人間の各種の営みを能力だと見るように努めている。能力だからこそ、全ての人が皆等しく持っているとは限らない。

そうであれば、できない人を非難・攻撃するのが間違っていることも自明となる。人の能力がないことを以て、切って捨てる等は論外という結論に達するはず。

能力に個人差があることは私達も成長過程で嫌というほど経験しており、この点で争う人はいないはず。誰もが1つや2つ苦手なことがあることに思いを致せば、他者に対してもっと寛容になれる、というのがその理由である。

それでも「やろうとしないのが良くない」「訓練は不可能を可能にする」等と言う人が後を絶たない。気合い・ヤル気・覚悟に視点を定めて他者を攻撃する人って結構いると思うが、既に述べたようにそれは間違っていると感じている。

確かに全く訓練しなければ、できるようにはならない。それは認める。しかし、それでは訓練すれば皆ができるようになるか。たいていの場合、その答えはNo!であろう。

訓練してもできない人というのは必ず出てくる。そうやってできなかった人達は、人知れず視界から消えてゆく。でも、最初から存在しなかったわけではない。

もしかしたら、身に付かなかったことについても努力不足と非難するかも知れない。でも、これについては「努力できることも能力である。努力も持って生まれた能力であり、全ての人ができることではない」と考えるべきだろう。

どうして皆が「やればできる」「努力できる」と考えるのだろう。惰弱・無気力と批判するのは簡単だけど、それは後天的に改善可能なものなのだろうか。持って生まれたキャラクターって、軽んじられてもよいのだろうか。

自分が能力を持って生まれた偶然に対し、もう少し感謝の念を持つべきだと思う。能力獲得に関し、実は生まれる前に努力をしたというなら何をしたのか話を伺いたい。

持って生まれた能力によって収入を得ることは素晴らしい。でも、脳細胞の配線が順列組み合わせによりちょっと違ったがゆえに能力を獲得できなかったとしたら、それは本人のせいではないだろう。

このことが分かれば、他者に対してもう少し優しい見方ができるようになるはず。世知辛い世の中で余裕が失われた結果、能力差によりマウントを取り合う風潮も出てきているが、それは3つの点でやめた方が良い。

人としてどうよ? という当たり前が1つ。そして、時代の流れでその能力があまり必要とされなくなる可能性が1つ。更に、世に居場所がなくなった無敵の人に狙われる可能性を増やすというのが1つ。

年を取ったら失う能力の方が多い。そのことを目の当たりにするようになって、できないことを批判してはならないなあと身に染みて感じている。

お読み頂き、ありがとうございました。

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