見出し画像

「人の気持ちを考えろ」というパラドックス

今朝の「週初のやる気をくじく雨」にも負けずに出社したところ、昼休みには止んで午後からは薄日が差してきました。帰宅時には朝の寒さが嘘のように蒸すようになり、天気の変化の早さに翻弄された一日となりました。

さて、……。

上川外務大臣が静岡県知事選挙の応援演説で行った「一歩を踏み出したこの方を、私たち女性がうまずして何が女性でしょうか」発言について、取り沙汰されている。

結局、18日に行なったこの応援演説での発言について、翌日19日に「女性のパワーで未来を変えるという私の真意と違う形で受け止められる可能性がある」として撤回した。

この件について、私の結論から示すと「選挙においてより多くの支持を得たいという目的からすると少し不適切とは思うものの、一般論で考えれば完全にアウトとまでは言えず、撤回までする必要はなかったのではないか」である。

「さまざまな事情により子どもを産まない、産めない女性がいる。そういう人の気持ちを考えるべき」という批判について、その点を全否定はできないので「少し不適切」だとは思った。でも、だから全然ダメかというとそれは違うと考える。

「気持ちを考えるべき」ということを他者に言う時点で、言われた側の気持ちを考えているのかというパラドキシカルな状況になる。人間は全ての人が常に傷つかない発言をすることは極めて難しい。

昭和天皇の「あ、そう」はまさにこのような軋轢を避ける究極の会話スキルであった。でも、このような「あなたの発言は受け止めましたけど、それ以上のことは言えません」というスタンスで、応援演説はできない。

もちろん、人格や名誉を傷つけるような発言は厳に慎むべきである。でも、そうでないならば自分と異なる考え方を認めて過剰に反応すべきではないし、受け流すというのもアリだと思う。

「お子さんは?」
「うちはいないんです」
「あら……ごめんなさいね」
「いえ、いいんですよ」

という会話をした、見聞きした人は世の中に多いはず。今回の発言は、本来はこれくらいでお互い流すべきものだと思う。それを「配慮されず傷つく人がいる」と言い出すのは、やはり過剰反応だと考える。

「政治家としての影響力を考えるべき」というご意見も見たけど、具体的にどんな影響が出るのかが想像できない。例えば私は裏金等には無縁で、政治家がそれをやっていてもキチンと確定申告した。よって、私は影響を受けていないと考えるのだけど、そう主張する人は虚偽の確定申告をしてしまったのか、心配になる。

ただ、この「私たち女性がうまずして何が女性でしょうか」は「うむ」という言葉を避けて「私たち女性が(この候補者を)当選させずして何が女性でしょうか」と書き換えた時に、やはり違和感は残る。

結果が落選なら女性性が否定されるのはやはりおかしい。逆に、女性ならこの候補に票を投じるべきというなら「なぜ?」という疑問が湧く。そして男性はどうなるのかについて語っていないのも座りが悪い。

大げさにすべきではないのだけど、質が良かったとも言えない応援演説だった。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。