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夏の終わりの寂しさについてのモノローグ

何とかたどり着いた週末。昼の雨も止んでいて開放的な気分を満喫しています。

さて、……

あれだけ暑さを思い知らせた夏も、そろそろ終わりを迎えつつある。夏の終わりは何となく寂しさが漂う。セミの声がツクツクボウシに代わると、秋の到来を実感する。

夏の次には秋が来る。秋の豊穣な実りは、我々の舌を喜ばせ胃を満たす。それが体内に吸収されて血肉となるのに、秋は寂しさを強く感じさせる。なぜだろう。

私見でしかないが、秋の実りは結果を意識させるからではないか。良くも悪くも出てきた結果。熱中して取り組んでいたことから手を離さねばならない状況が、それまでの躁状態から現実へと意識を引き戻す。

いずれそうなることは薄々分かっていながらも気付かないふりをしていたのに、ついに目を背けられない時が訪れたことに気付かされる。そうなれば、張り詰めていた気が抜けてしまうのもやむを得まい。

春⇒芽吹き⇒育ち⇒成長
夏⇒日差し⇒熱情⇒成熟
秋⇒熟れる⇒実り⇒収穫
冬⇒枯淡⇒次世代⇒再生

春夏秋冬に対して私のイメージを被せると、このような感じになる。夏は強い日差しに感化された多くの生き物が、あふれる生命力を熱情に変え、精一杯の成長を果たして大人として成熟に向かう季節だと認識している。

一時の熱情が過ぎ去れば、静かな時が訪れる。ある程度落ち着いたところで果実が熟れて実り、収穫の時を迎える。これからのシーズンは、まさにこの時期にあたる。

お盆を過ぎると、海もクラゲが増えて泳げなくなる。夏日々暑さにも負けずに長い休みを楽しんだ日々も終わりを告げ、子どもたちも宿題に追われる日々が訪れている。

夏の間はさまざまな可能性があり、数多くの夢を見ることができる。そして、強い日差しの助力を得てその夢の実現に動くこともできる。でも、秋が近づくにつれて可能性の多くは行き詰まり、1つの結果に収れんしていく。

1つの結果は即ち抗えない実在として現れる。そうなると、仮に結果が期待以上であっても、もしかしてさらにすごいものにできたのではないかという気持ちがふつふつと湧いてくる。その域に達することができなかった人が、ネット上でぼやく。

このようなそれぞれの思いを載せて季節は巡ってゆく。地球レベルで考えれば、個人の出来不出来への感慨などは誤差の範囲レベルのものかも知れない。

そして実際、多くの人が多少の不満はありながらも次の取り組みネタを探して日々を過ごしている。

今回はいつもと違う書き方にしてみました。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。