お国のため

戦前派の母は、「公」の意識が強い。そして、世間様にすごく気を遣う。

その分、「私」については抑えるのが習い性になっている。人への評価においても、その影響が色濃く出ているように感じる。

根源的には、幼少期にたたき込まれた「お国のため」の影響が強くあるのだろう。少国民として国のために尽くし、組織された集団の中でうまくやっていくことが、大前提の規範として思考過程に染みついてしまったのではなかろうか。三つ子の魂百までである。

このこと自体は、まあしょうがないと受容できる。

ただその裏返しとして、十分に公に貢献できていないと感じる人たちについて、あまり肯定的なコメントを聞いたことがない。それは、意思ではなくハンディ等によるものでも同様である。

聖戦の完遂のために一丸となる、というマッチョで単一の価値観は、「世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ 」との玉音放送の結びの言葉も相まって、戦後復興・高度成長にまで受け継がれてしまった。母達の世代は、その是非を立ち止まって考える機会を持てなかった。

爾後75年が経過、できる自分を評価する価値観が、老化による自らのできない状況の許容を妨げてしまう。能力を喪失するまで、自分がそのような事態に陥るとは、想像すらできなかっただろう。

できるできないに拘泥しない、人が人であるがゆえに尊いという価値観を身につけることって大事だな、と思う。因果は巡り、できない人を肯定的に見られないことが、人生の最後になって祟るのだから。

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