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無差別殺人の対象としてたまたま命を狙われることの非対称性

今日はかなり温かかったように思います。早く本格的な春になって欲しいものですね。

さて、……

3月1日、埼玉県戸田市の中学校に侵入した高校生が殺人未遂の疑いで逮捕された。中学校は定期テスト中で、高校生が侵入してきたのを見た教員は、生徒を侵入とは反対側の出入り口から避難させ、更に高校生を制止しようとした。

これに対して高校生が教員にナイフで切りつけて大けがをさせたというのが、おおよその顛末である。

高校生は逮捕後に「無差別殺人に興味があった」「以前から人を殺してみたかった」と話しているとのこと。

この事件が起きる前に、隣接するさいたま市で見つかっていた猫の死骸についても、高校生は関わりがあるかのような供述をしているようであり、もしこれが本当だとすると、更に動物愛護法違反にも問われることになるだろう。

残虐な無差別殺人に及ぶ前に動物に殺意が向かうのは、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の犯人と同じである。そのような行動をする者に共通する類型なのかも知れない。

しかし、動物への加害は人知れず行われることが多く、周りの者が気づきにくい。結局殺人(未遂)行為が行われた後に、振り返ってみればそういうことがあったということになりがち。

でも、今後は小動物の不審死があった際に「もしかしたら……」と考える契機となるだろう。もっとも、加害行為が個人に紐付いておらず、かと言って周囲のすべての人を警戒の対象にはできないので、対応可能なことは限られてしまうのが残念である。

無差別殺人の場合、被害を受ける側に命を狙われるような行動はしていないのが通常であり、まさに身に覚えがない状態である。しかるに、ただ人を殺したいという願望を持つ人間と偶然出会い、たまたまその者が殺意を持ち、それにとらわれて行動を始めてしまう。普通に考えて、この状態で我が身を守れるのかは運によるとしか言えない。

凶器を持つ人間の方が攻撃力も高いし、明確な意思によってためらうことなく自分を襲ってくる。対する自分はそもそも何が起こったのかが理解できず、自らの常識でそんな行動をする者などいないと考えてしまう。

その結果、どうしても守りの動きが鈍くなり、防戦する覚悟を持つのも遅くなる。圧倒的に襲われる方が不利なのである。

今回は、中学校の教員が適切に生徒を避難誘導し、かつ自分の命も保つことができたけれど、これはやはり運が良かったとしか言えない。

これに比べると深刻さは大分軽減されているものの、広島では3月3日にこんな事件が起こっている。

こちらは広島市内の中学校で発生したもの。同級生をトイレで切りつけただけで既に収まっていたため殺意は無かったのだろうけれど、やはり「相手は誰でもよかった」と言っているとのこと。

我々は、こういう人達とともに生きていることを、頭の片隅に置きながら生きていかねばならない。残念ながら。

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