見出し画像

友達がいなくても、社会で生きていければ十分

昼にはちょっと温かくなりましたけど、夕方はやはり寒くなってきましたね。晴れの天気はありがたいですが、水不足で取水制限みたいなことが起こらないよう願っています。

さて、……。

年賀欠礼はがきを作成したことは既に述べた。手間取りながらだけどw

年賀状って本来は旧年にお世話になった人に御礼を述べ、新年もよろしくとお伝えするものだと認識している。しかし友達の場合、旧年に特段のやりとりがなくても出し合う年に1度の安否確認的な位置づけとなっている場合が多い。

でも、この友達の出し先は減る一方。さすがにどんな人だったっけ? ということはないものの、付き合いがないとどうしても意識からは遠のいていく。そして年賀状のやりとりだけが残っているという人も少なくない。

そういう状態で、こちらが出したのに返事が来ないとなると、来年はもう出さなくてもよいかな、となる。これが事実上最後の友達ラインであるとも言える。私は小心者なので自らこの一線を越えたりはしてきていないが、切られたのであれば是非もなし。

同様の経験は、恐らく多くの人がしていると思う。では、年賀状のやりとりが途絶えた段階で「あなたとその人は友達ですか」と正面から問われたら、あなたはどう答えるだろうか。

ぶっちゃけ、私なら「友達です」と答えることにためらいを感じる。「昔の友達」という言い方にならざるを得ない。

もっとも、このことを敢えて悪く受け止める必要もないとは思っている。人は大抵一人で生まれ、一人で死んでゆく。つまり、一人の状態がベースで、友達は生きる過程の折々を彩るアディショナルなものなのだから。

だから、友達は自身の成長に合わせてその付き合いに深浅が出てくる。それも人生の一時期に必要なものだったと理解するならば、きっと前向きに受け止められる。

この点は夫婦でも同じかもしれない。更に言えば、親兄弟ですらそれはある。もし家族と友達の違いを挙げろと言われたら、法的な関係の有無による縛りであり、親兄弟であればそれに加えて血のつながりだろう。

この縛りやつながりがあるが故に、家族は(イヤでも)付き合いを継続しがちにはなる。でも、それも絶対ではない。

一生親しく付き合える人はそもそもが希有の存在であり、それがいないことも当然あり得る。幸い私にはそういう存在がいて心からありがたいと思ってはいるが、そういう存在がいないからといって卑屈になる必要などさらさらないと考える。

ただ、これから加齢するに従って、大多数の友達ではない人とキチンと話をして意思を伝え合える関係を結ぶことは不可欠だと思っている。それができれば社会で生きていけるはずであり、それで満足すべきではなかろうか。

友達100人教の洗脳から抜け出す方が幸せになれる。私はそう考えている。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。