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死んだ親の年を数える

正月明けから忙しい一カ月が終わろうとしています。ウサギ🐇年は跳ねるそうですが、脳内で案件が跳ね回っているのは間違いありません。

さて、……

今回のタイトルに「?」と思った方は正しい。一般的には「死んだの年を数える」である。この言葉は文字通り「死んだ子が今生きていれば○歳になるはずだと、その年齢を数えること」を意味する。

そして「言ってもどうしようもない過去のことについて、あれこれ言って悔やむことの例え」で使われる。

でも、それだけではないとも思う。親の心の中で、子は生き続けている。言い換えると、子どもが死んだことを受け入れきれない親心がある。その思いが、ついつい子の年齢を考えさせてしまうということだろう。

実は、早いもので私の父が亡くなって今年で7回忌を迎える。さすがに日常生活で父を思い出すことは少なくなっているのが正直なところ。でも、母の介護の関係で帰省すると、それに伴って父のことも連想してしまう。

そして、その際に「お父さんが生きていたら、今年で○歳か……」と考えてしまうのだ。また、会社で社内掲示板にOBの訃報が載ることがある。その年齢を見て、父の享年と比べてしまうことがある。それこそ比べてもどうにもならないことではあるのだけど。

とはいえ、やはりこの気持ちは死んだ子の年を数える親の気持ちとは別だと感じる。

何が違うかを考えてみた。しばらく考えて気付いたのは、親の場合は妄想を伴わないということ。

死んだ子であれば、年を取るごとに成長した姿を想像し、それを七五三や入学といったイベントと重ね合わせてしまう。そして何を着せる、お祝いには何をあげよう……といった妄想にふけってしまう。

しかし、親の場合はそうならない。何年経っても姿形は変わらないだろうし、特段のイベントもないからだ。

還暦はとうの昔に過ぎているし、金婚式のお祝いもした。残っているのは卒寿・白寿くらいだったのだけど、それを私が指折り数えて楽しみにしていたかというと、申し訳ないがそうでもない。

やはり、子に向ける愛情に比べると親に対しては長い関わりに基づく愛着に近い感情かな、と思う。それは良し悪しで評価をすべきことではないだろう。

なお、亡父の年齢を数えた後に、改めて生きている母の年齢も数えてしまう。もう、父の享年を過ぎて久しい。母方の親戚の中で、母は一番長生きである。

母本人は「家系的に私は長生きしない」と言っていたのだけど、そんなことはなかった。そうなるように父は母の健康に気を遣ってきた。その努力が実っていることを、泉下の父は分かっているのかが気になるところ。でも、知るすべはない。

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