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誰も入らせたくなかった

一人が好きだと話した日から数年。

いまだに一人暮らしを続けているし、一人で黙々と考える時間は今もなおずっと好きである。

なんで一人が好きなのか。
誰かの前に立った時に、粘土が押し潰されるように形作られる自分を出さなくていい感覚なのかもしれないと語ったけれど、他にもあるなとふと考えた。

私は、昔から自己肯定感がとても低かったけれど、少しずつ肯定感を持てるようになり、友達や知り合いとの関わりも、一緒にいて自分が前向きになれると感じられるものだけを大切にするようにシフトしていった。

心のうちを話せる知り合いとの会話は、尊いもので。辛いことを打ち明けて気持ちを楽にできる時間。楽しい話を共有して腹の底から笑える時間。全てとても大切で幸せな時間である。

だけど、それでも自分の中の奥底にある一番深い根っこの部分は、誰かに共有することはしないで生きてきた。

これは、何度も言うけど、心を開いてないわけではなくて。
多分自分で捉えられる意識領域において心を開くというのはやっているが、
その一個先の無意識の奥底にある、自分ですらそれをカタチとして捉えられないアイデンティティの根幹の部分に関しては、無意識に固く守り続けてしまっているのである。

それはなぜかというと、
自分に根拠のない自信がやっぱりないからだ。

ありのままの自分を認める。その感覚は少しずつ理解してきているし、自分らしい自分が好きだ。
ポンコツだしビビリな自分が周りに別に嫌われないことだってわかってる。
私が信用している人が私を受け入れてくれていることも理解している。

けど、無意識の根底の部分までに、自分以外の他人の目が届いてしまうことがとてつもなく怖い。

私の0から100全て知られることで、人に私をまるまる計られてしまうことが怖くてたまらない。

けれども、私に対して立ち入らせない部分・余白を残しておくことで。私だけが評価できる自分を残すことで。自分の中で他者は本当の私を評価できないものと据えておくことができる。

そうすれば、いくら他人が私を評価しようと、本当に全てを見て下した評価ではないから、
その私は私ではないと歯向かうことができると思ってしまうのである。

全てを知られて価値が低いと評価されるなら、
誰も自分を知らないままでいてほしい。

ほんの少しだけでも誰も立ち入らせない空間を作ることで、
井の中の蛙。
自分の中で完結している自分を守り続けたいと思ってしまう。

それが、一人が好きな理由の根っこにあるんだろうなぁ。

孤独なスペースがあることはとても楽で。
自分を守るためには大切なことだとも思っている。

だけど、根拠のない自信を持つ勇気を持つことで、自分を好きだと言い切れる強さを持てれば、
全てを曝け出した自分が誰にどう評価されてたとしても、もっと楽しく、もっと前向きに生きていけるんだろうなと感じる。

もっと強くなりたい。
強くなりたいと思うきっかけがあったから。

繊細な部分は大切にしながら、
自分を信じれる強い心を持って、
しっかり芯を持って生きていける人間になりたいな。


そして心をすべて開いた時に、拒絶されることを恐れない強さをもったときに、初めて、本当の心の底からすべての自分を受け入れてもらえる喜びを理解できるんだろうな。


なんて。とてつもなく感性的な話をしてしまったのですが。

夜中のひとりごととして、多めに見てくれたら嬉しいです。

明日には何言ってたんだ自分?とかなるかもしれないけど、記録として残しておけたらと思います。

以上!おしまい!


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