保育原理とか教育原理に出てくる人物紹介(随時更新)



保育士資格を取りたいので、

自分の勉強のために下記に記していきます。

覚えやすくするために随所に独断と偏見がありますがご了承下さい。

随時更新します。

(最終更新:20/09/16)



コメニウス
ポーランド人。1590-1670くらいを生きてる。若い時に両親が亡くなった。カトリックとプロテスタントの戦いに巻き込まれて虐殺シーンをいっぱい見てしまったため、争いのない世界を目指して教育の道を進む。みんなが平等な世界を目指しているので、今の同一学年の人が同一の学級で勉強するというような仕組みを考えたり、世界の誰もが分かるような図と絵がいっぱいの教科書(世界図絵)を作ったりした。子供の心はまっさらな白紙(タブラ・ラサ)だと言っている。コメだけに白い。しかも子供だけじゃなくて母親への教育まで考えた熱心な人である。

オーベルラン
フランス人。1740-1830くらいを生きている。貧しい村を再建すべく奮闘。まずはお母さんが生計を立てられるように「編み物学校」を作った。そして両親が働き兄弟が学校に行ってしまう状況だと幼児が放置されてしまうので、幼児教育の重要性を説いて、編み物学校の中に幼児学校(世界初の保育施設)を作った。ベル(美女と野獣)がランランと編み物を編んでいる様子を想像すると覚えやすい。

ペスタロッチ
スイス人。1750-1830年くらいを生きた。初めは貧しい農民を救うべく農業に携わった。農民のための学校を作ったりしたが貧しすぎて失敗した。このことを「隠者の夕暮」に記す。その後フランス革命で親も村も焼け果ててしまったシュタンツという地域の孤児のために孤児院を経営した。しかしこれもフランス軍の病院にされてしまって閉鎖。ショックすぎて吐血。この孤児院でのことを「シュタンツだより」に記す。それでも教育の夢が諦められず小学校の先生へ。「ゲルトルート児童教育法」は有名になり、この後紹介するフレーベルやオーウェンなど、いろんな人が彼のもとへ勉強しに来た。貧しさや不平等が許せないペスタロッチ先生は、女子学校や聾唖学校、貧民学校を作るなどその行動力は凄まじいものである。貧困と闘いながらもめっちゃ本書く先生(先生の先生)というイメージです。

オーウェン
イギリス人。1770-1850年くらいを生きた。当時イギリスは絶賛産業革命中で工場の騒音がゴウンゴウンの煙がモクモクであった。そして子供がめちゃくちゃ働かされていて可哀想であった。オーウェンは心優しい工場長で、1日15時間とか働かされてる子供たちは可哀想だなと思った。というか子供の時期に酷いことするとめっちゃグレるから、子供には良い環境を与えて良い性格をまずは形成した方がいい!と考えたので、工場の一角に「性格形成学院」って名前の学校を作った。幼児学校、昼間学校、夜間学校の3つのクラスに分けて子供たちはお話しや歌やダンスを楽しんだ。この性格形成学院が、現代の義務教育に繋がる最初の姿であった。そして工場法の改正にも献身したとっても優しい工場長なのでした。

フレーベル
ドイツ人。1780-1850くらいを生きてた。オーウェンと同世代だね。0歳で実の母を亡くして継母にめちゃくちゃいじめられていたので、彼の心を綺麗にしてくれるものは宗教的な教えしかなかった。だから彼の教えはかなり宗教的!紆余曲折を経て教育の道を志すのだが、彼は子供には神が宿っていて(宗教的だよね)、連続的に(だんだんと)育っていくから、無理やり早期教育をするのではなく、子供が育つのを子供に寄り添って支えていくことが大切だと考えていた。それは植物に対する庭と同じ。植物が育ちやすくて植物が守られる環境を作るのが庭じゃん?だから子供にも庭が必要だよねって。キンダー(子供の)ガーデン(庭)。つまり彼こそが幼稚園を世界で最初に作った、いや、厳密にはオーウェンに先越されてるんだけど、でもそのキンダーガーデン(キンダーガルテン)という名前はフレーベルが由来なことは間違いない。恩物(神からの贈り物って意味)という玩具を作ったのも有名で、めちゃくちゃたいそうな名前が付けられているが、実際は10種類の球とか立方体の形をした積み木みたいなやつである。

関信三
明治くらい(1850年前後)に活躍してた人。お坊さんなのにキリスト教集団の中でスパイをやっていたというクールガイ。イギリスに留学している中でフレーベル教育を知り、日本に持ち帰って日本初の幼稚園である東京女子師範高等学校附属幼稚園を作った。ちなみにその時の主任保母さんは松野クララというドイツ人の女性で、彼女の弾くピアノの音色と子供の笑い声が響き合うなんとも優雅で素敵な幼稚園である。

赤沢鍾美(あかざわ あつとみ)
めっちゃ女性っぽいけど男。1860-1940くらいを生きた。関伸三が作った東京女子師範高等学校附属幼稚園は金持ち向けの幼稚園で、その頃の日本の実情は、女子は子守をさせられてたので幼稚園や学校どころではなかった。政府は子供を連れて行ける子守学校を作ったけど、子供を連れてっても見てくれる人がいるわけでも無いし、普及しなかった。そこで赤沢鍾美は妻に子供の面倒を見させるという事実上の託児所、保育所を新潟県の静修学校につくったのであった。「静かに修学できるね!」と覚えると良い。ここは後に守孤扶独幼稚児保護会という名前になる。"赤"とんぼの歌詞に出てくるような幼稚園には通えない"孤独"な幼児を"守"っていた"美"しい心の持ち主なわけである。

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倉橋惣三
大正から昭和くらい(1880-1950くらい)に活躍してた人。岡山生まれだが、見栄っ張りの父のせいで東京の学校に入れられた。母と2人の東京暮らしで貧乏。俗世の遊びには興味が無く、もっぱら東京女子師範高等学校附属幼稚園(ちなみに日本初の幼稚園。ちなみに初代園長は関信三)の子供と遊んでいたという根っからの子供大好きおじさん。そのまま東京女子師範高等学校附属幼稚園の主事を長年務めた。東京女子師範高等学校大好きおじさんかと思いきや、その教育法であるフレーベル主義のことは形式的だ!と批判していた。もちろんフレーベルが形式的な教育手法をとっていたわけでは無いのだが、どうしても日本ではフレーベルの開発した「恩物」それ自体、またそれの使い方をとても重視していたため形式的に見えたのも仕方ない。倉橋惣三は自分で育とうとする子供、その子を育てようとする親、その関係性って素敵すぎる!楽しすぎる!と感動して自分の墓にもそのようなことを書いている。児童を中心に置く「児童中心主義」を唱え、児童に寄り添う「誘導保育」を大切にした。日本保育学会を作ったのも彼。

野口幽香
1860-1950くらいを生きてる。華族(超金持ち)の幼稚園で働いていたが、金持ち特有の横柄な態度を取ってくる子供にちょっと疲れていたところ、道端で健気に遊ぶ児童に心を打たれた。そこで貧しい子も教育を受けられるように、と二葉幼稚園を自ら開園。母の家という母子ホームの前身もつくった。「荒野に生えた二葉を育てる幽霊」と覚えよう。

東基吉
1870-1960くらいを生きてる。いろんなところで先生をやってたけど、東京女子師範高等学校附属幼稚園で批評係(リーダー的ポジション)になった際に形式的な幼稚園教育を批判して、日本初の幼稚園教育の方法を記した「幼稚園教育法」を書いた。教育法の法は法律の法ではなく方法の法です。「欧米の方法を"東"アジア用にした。」と覚えると良い。

エレンケイ
スウェーデン人。1850-1930くらいを生きてる女性。ルソーの教えをリスペクトしつつ、1900年に児童の世紀という本で「教えないことが最大の教育」という消極的教育の極みのようなことを書いたことが有名。「セイキについては教エレン」と覚えよう!(?)

デューイ
アメリカ人。1860-1950くらいを生きてる。哲学者。「実験学校」という怪しい名前の学校でしばらく先生をしていた。子供の日常と関連しないような教科書的でつまらない授業(と、デューイは捉えてますが、教科書は今までの英知の結晶、物事の本質を教えるものですのでその方がいいと思う人も当然いて、"本質主義"として対立していきます)ばっかりやるよりも、子供たちが日常の生活の中で色んなことを経験して、その中での困りごとを解決する(問題解決学習)ことに重きを置いた教育をした方が良くない?と思った。これは進歩主義といわれた。実験というのは「実際に試す」ということだから、まさに実経験を重視したデューイの学校という印象を受ける。デューイは「学校と社会」という本に記していて、今までは教科書などを中心に教育がなされてたけど、これからは子供を中心にしよう、太陽を中心に他の惑星が回ってるのと同じ!子供は太陽だ!と語っている。彼の思想はかなりリアリズムだが、子供を太陽だと言うのは他の人たちと比べてもメルヘン。ディズニーのキャラにデューイというキャラがいるので、太陽に例えるメルヘンさと関連させると良いかな。

モンテッソーリ
イタリア人。1870-1950くらいを生きてる。名前的にヒゲモジャのおじさん感があるがなんと女性である。男尊女卑の中で頑張って女医になったが就職先が無くて困った。やっと勤められたのは精神病棟で、知的障害があるとされた子供が檻の中でパン屑で懸命に遊んでいるのを見つけたので、良さげな道具を作って与えたところ、その子がめちゃくちゃ頭良くなったので皆んなにビビられた(後のモンテッソーリ教具に繋がる)。モンテッソーリは子供は自分で育つ力があると思っていて、それを支える道具が必要だと考えてる。それから、モンテッソーリは人間の成長を6年毎に4段階に分けている。まずは0ー6歳、この頃は"吸収"力が半端なく、周りに対して"敏感"で、自立したり思いやりの心をもったりと人間として"正常化"していく。次が6ー12歳、この頃は"群れ"たがる時期。小学生がみんなでサッカーをしているところを想像すると覚えやすい。そして12ー18歳。この頃は自分の"価値"を探す時期。まさに思春期である。最後が18ー24歳だがここはほとんど記述がないらしい、たぶん考えるのに飽きてしまったのだろう。

城戸幡太郎
1890-1980くらいを生きた。保育問題研究会の会長。子供に寄り添うみたいな考え方が多いこの業界で「大人が子供にちゃんと教えた方がいいでしょ!」と考えている珍しめな人。中心にあるのは子供じゃなくて社会!保育も社会訓練のためにある!社会中心主義。「社会問題にドキドキ太郎」と覚えよう。


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