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上野・フィクション

 17:14 この街は歩けば歩くほど物語が垣間見えてしまうため、私は煙草の吸えそうな喫茶店に入った。少々煙草を吸い、文庫本を読み、今日さぼった分の大学の課題を進めようと考えた。次の予定は19:30からだったので幾分か時間があった。王城に入り、端の席も何だかこっ恥ずかしいので入り口から突き当たって真っ直ぐの2人掛け席に腰をかけた。珈琲を飲みたい気分でもあったが、今日は既に2杯も珈琲を飲んでいるので冷静になり、リコリスジンジャーのホットを注文した。テーブルの上に灰皿が無いことに気がついた。老婦人がリコリスジンジャーを運んできたので、この席で煙草を吸えるか尋ねると、老婦人は外の赤い灰皿の前でなら吸えると言った。立ち上がる気分でも無かったのでそのまま大学のデザインの講義を受けた。アールヌーヴォーだかの話を散々聞かされ、エッフェル塔はただの鉄屑だという話も聞かされた。それからもう歴史の話なんてうんざりだと思い私は1年前に生真面目で丸顔の男に勧められた「ジョゼと虎と魚たち」を読み始めた。解説は山田詠美だからきっとこの本はとてもピュアで純粋で生真面目な人間が読む本なんだろうと思った。
そしてひと段落ついて、ショートカットの若い女の店員に赤い灰皿の前に案内してもらった。目の前に赤い「おでん」の看板を眺めながら私はピースのアロマクラウンを1本吸った。一口吸って甘い香りが喉にへばり付くのを感じた。そしてまた一口、また一口と吸い、平日の夕方上野の路上を歩く人々を視界に入れながら、建物の隙間から見える秋の空を眺めた。
 17:53 来店の合図もなく男女2人が来店し、私はある程度本を読み進めていた。女は私に背を向けて座り、男は女の前に座っていたが女の帽子が幾分大きく、眼鏡にマスク、煌びやかな英字のロゴが入ったキャップをかぶっていたため顔はよく見えず、年齢も不詳である。

「ご注文はお決まりですか?」
「まだです..」
「お前まだなの?早く決めてくれよ!待ってんだよ向こうは、俺はもうコーヒーって決まってんだから、相手を待たせるなよ!早く、早く決めろよ、何か食べるのか?早くしろよ、決まったか?いいんだな?..すみませーん。」

先程喫煙所に案内してくれた若いショートカットの店員と目が合ってしまい、私は再び文庫本の活字にひとまず目を落としておいた。

「はい、お決まりですか?」
「俺はホットコーヒー。で、あなたは?」
「...で」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

よくよく話を聞いていると、女は何語を話しているか分からない。男は終始はっきりときつい口調で日本語を話している。

「お待たせしました、お先ホットコーヒーです」
「こちら...でぇす」
「ここのお店何時までなの?」
「19:00までです」
「お会計、クレジットいける?いけないか、現金で払うよ、じゃ今お会計いい?いくら?」

 男は会計を済ませて席に戻り、払ってやったよというような態度で女の訳のわからない言語に日本語で返答していた。知り合いが針の店をやってて金持ってるとか肌がピチピチだとか1回8000円が安いとか高いとかを話していた。こんな話を聞いている私が馬鹿馬鹿しくなった。そして私の所にショートカットの若い店員が来て、お先にお会計だけお願いしますと言ってきたので、1000円を払い300円のお釣りをもらった。
「俺は先に払っておいたからさ、並ばなくていいのよ!ケッケッ!ね?みんな最後にお支払いするでしょう?そして並んで早く帰れないでしょう?俺たちはすぐ帰れるよ!よかったねぇ〜、あ、ここテイクアウトも出来るんだね、でもここのお店の名前読めないね、すみませーん!ここのお店なんて読むの?」
「おおじょうです」と店員は答えた。
「おおじょうだってさ!覚えた?よかったね読み方を教えてもらって、今度、時間空いてたら美術館行こうね。上野じゃ無いよ、上野じゃ無いところの美術館。」

 店が19:00で閉まってしまうとなると、残りの三十分をどう過ごそうか私には見当もつかないし、お腹は減ったがご飯を食べに行く前にご飯を食べる人間も阿呆なので雑貨屋にでも行って、要るか要らないかわからないものを眺めようと思った。
 女は終始何かを食べていて、早く食べろと男に怒られていた。しかし彼らが帰っても、女はなにを食べて何を飲んだのか私には分からないままだった。私はオレンジ色のリップを塗り直し店を後にした。

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このお話はフィクションかノンフィクションかは誰にも分かりません。

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